秋田・安東氏:上国家(湊家)

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上国家(湊家)

概要・歴史・観光・見所
上国家(湊家): 上国家の成立時は不詳ですが、一般的に比較的早くから秋田地方に進出し大きな影響力を持った秋田・安東家の一族を上国家や湊家と呼んでいます。発生の時期には概ね4説あるようです。

 @ 安藤氏の乱以前−大治元年(1126)に安倍季治が山王社を染川から北浦に遷座。
 A 14世紀初期−安藤氏の乱で排斥された安藤又太郎(季長)が秋田に逃れた。
 B 応永年間始め−安藤鹿季が秋田之湊を討ち、湊家の元祖となった。
 C 応永年間始め−安藤康季の弟である庶季が湊家の元祖となった。

@説ですが大治元年(1126)の年号は家系図を尊重すると康平5年(1062)に安倍貞任が討たれ、子供である高星丸が流れ付いてから僅か60年弱で俄に信じられませんが、もし、本当に安倍季治が山王社を染川から北浦に遷座したのであれば秋田・安東氏とは関係ない安倍氏という事になります。その後も嘉歴3年(1328)に安藤氏の乱(津軽大乱)以前に男鹿半島周辺には安倍氏が関係したと思われる社寺が数多く存在し、「秋田「安東氏」研究ノート」で記載されているものを挙げると以下の通りとなります。

年号西暦人物名実績
建長元年1249安倍盛季男鹿本山仁王堂(現在の赤神神社)建立
建長年中1249安倍太郎
安部吉定
馬場目村白山権現(現在の馬場目神社?)に社領寄進
建長5年1253安倍盛季男鹿本山赤神山日積寺五社堂(現在の赤神神社)仁王門造営
正和元年1312安倍政季古四王権現(現在の古四王神社)再興
元亨2年1322安倍宗近笹岡に八幡山王社(現在の日吉八幡神社)創建

このように、上国家(湊家)と関係があるかは不詳ですが少なくとも13世紀中期頃には安倍(安東・安藤)氏一族が何らかな形で現在の男鹿半島から秋田土崎周辺に影響力を持っていたと思われます。

Aの安藤又太郎(季長)説が現在では有力とされ、嘉歴3年(1328)に安藤氏の乱(津軽大乱)ではあくまで和睦であり敗北では無いとの見方があります。資料等には季長は捕縛され移送されたものの処罰や処分を受けた形跡が無い事から、和睦後は許され、一定の領地に再配置されたとも考えられます。延文2年(1357)に編纂された「石橋和義奉書」によると男鹿半島には安藤孫五郎と安東太という2人の領主が南朝方と北朝方に別れて対立し、北朝方である安東太が有利だった事が記載され、少なくとも南北朝時代には安東(安藤氏)が支配していた事が窺えます。さらに前述した「秋田「安東氏」研究ノート」でB説の応永2年(1395)に安藤鹿季が湊に侵攻する以前で記載されているものを挙げると以下の通りとなります。

年号西暦人物名実績
元弘元年
元徳3年
1331安倍高季赤神山(現在の赤神神社)に多宝塔を奉納
建武2年1335安倍盛季本山社(現在の赤神神社)修築
康永3年1344安倍兼季染川城築城
康永3年1344安倍兼季北浦山王堂(現在の北浦神社)修築
貞和元年1345女川寂蔵本山赤神神社(現在の赤神神社)の大小堂宇修築
観応2年1351安倍寂蔵寺内村古四王堂(現在の古四王神社)修築
応安5年1372安倍忠季本山社(現在の赤神神社)修築
応安5年1372安倍高季本山五社堂(現在の赤神神社五社堂)修築

Bの安藤鹿季説は近年までは通説のように論じられた説で、「安東氏系図」には応永2年(1395)に鹿季が湊城を落として湊城主になった。又、「秋田系図」には応永の始めに鹿季(西関安東二郎)が2百騎の軍勢を従えて湊(土崎湊)を討ち湊家(上国家)の元祖となった。「南部世譜附録」では鹿季が秋田城介顕任を湊で撃滅し秋田城に入り、自ら秋田城介と称するようになった事が記載されている事を根拠としています。当時の湊城の城主は秋田城介顕任(出所、身分等不詳)とされ、何故鹿季が2百騎という少数で城を攻略出来たのかも分かっておらず、疑問視されています。又、「蒼龍寺文書」によると応永2年(1395)夷島での反乱を宗家の康季(盛季)と弟である庶季(鹿季)が鎮圧した事から、推論で恩賞として男鹿半島から土崎湊一帯の支配権が与えられ、その統治者として鹿季が配されたという説もあります。

秋田氏・安東氏家系図
 ・ 貞季→鹿季(上国家・湊家初代)→成季→惟季→昭季→宗季→宣季→定季(堯季)→形式的に両安東家が統一

Cの説はと応永2年(1395)夷島での反乱を鎮めたは康季と弟である庶季と記載されている「蒼龍寺文書」や「秋田湊文書」を根拠としていますが、他の古文書には庶季とは鹿季と同一人物とされ、その兄である事から康季は盛季と同一人物とされます。

これらの事から、13世紀中頃から秋田・安東氏一族の秋田入植が始まり、社寺に寄進が出来る程度の勢力を持ち、安藤氏の乱(津軽大乱)後に津軽からは排斥された当事者である安藤季長又は、関係者、郎党が秋田に移り住み、前期上国家を形成、応永年間の初め頃には安東鹿季を当主として受け入れ後期上国家(湊家)として旧勢力だった秋田城介顕任を排斥させ、当地域を掌握したと思われます。又、南部側の資料によると当時の南部家は現在の秋田県仙北郡まで侵攻し元中7年(1390)には秋田に出兵してきている事からその援軍として鹿季が迎え入れられそのまま当主になったとも考えられます。このように後期上国家(湊家)は当初は一族の寄せ集め集団だったと思われ、応永17年(1410)又は応永18年(1411)に南部守行の侵攻を受け刈和野周辺での戦いで大敗、南部家に服属する事となり、文献によっては湊城も接収され南部守行の次男右京が城主として赴任したとされます。その後、旧領程度は回復したと推定され永享8年(1436)には湊城が築城され、永享10年(1438)には城下に愛宕神社が創建されています。康正2年(1456)には攻勢に転じ、後期上国家(湊家)3代惟季は南部領(仙北郡と思われます)に侵攻、決着は着かなかったものの、長禄2年(1458)に大敗し大きく後退又は服属を余儀なくされます。寛正2年(1461)に再び侵攻すると南部義敦に勝利を収め、以後数年に掛けて戦いが断続的に行われ大きく版図を広げています。その後は単なる安東氏一族というだけでなく天文年間(1532〜1555年)には「京都扶持衆(足利将軍と直属の主従関係を持った関東以北の武士)」にもなっており、中央勢力とも繋がりを持つ国人領主としての地位を確立していたと思われます。

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