安藤氏の乱(津軽大乱)

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安藤氏の乱

概要・歴史・観光・見所
秋田・安東氏が日ノ本将軍や蝦夷管領といった肩書きを得、関の古碑群:安倍氏一族供養塔蝦夷の平定や安定などの重責を担いながら、鎌倉時代初期は幕府にとっては都合の良い地方役人の1人程度という認識だったようで、蝦夷地が安定したのを見計らい、要地である田舎郡、鼻和郡、平賀郡の3郡が北条執権家の直轄領として組み込まれ、地頭として曽我氏が配され、糠部郡は寛元4年(1246)に5代執権北条時頼が「陸奥国糠部五戸」の地頭代職に御家人である左衛門尉平(三浦)盛時を補任している事から有力御家人が御内人(得宗被官)としての赴任地だった事が推察されます。残された津軽半島一帯と日本海側にあたる外ヶ浜(郡)、西浜(郡)、山辺郡の3郡が秋田・安東氏の采配地と推察され、やはり北条執権家の御内人(得宗被官)という身分だったようです。ただし、他の御家人は元々の本領があり采配地だった津軽は遠く離れていた為、地元有力者や一族のものを派遣し、それに反して秋田・安東氏は土着し直接支配した事で住民からは信頼され領地の開発も進んだと思われ鎌倉時代後期には大きな影響力を行使出来るまで成長しています。正中2年(1325)に発給された安藤宗季譲状によると津軽鼻和の郷、絹家島、尻引きの郷、片野辺の郷、並びに蝦夷の沙汰、糠部宇曽利の郷、中浜の御牧、湊、以下の地頭御代官職となり下北半島や蝦夷への命令権まで手中していた事が分かります。これは、一般的な地頭と比べると極めて広大な領地と権限を有するものであり異質な存在だった事が窺えます。

鎌倉時代末期、拡大した秋田・安東氏の利権を巡り、イチョウ:金井安倍氏菩提寺別院跡宗家とされる安藤又太郎と従兄弟(兄弟説もあり)である安藤五郎三郎との間に対立関係が発生し、元亨2年(1322)幕府の役人である長崎高資の元に双方から多大な賄賂が届けられたものの、明確な裁定が行われなかった事から(双方に戦の下知を下したとも)、津軽地方で両軍が激突しました。元応2年(1320)には出羽国の蝦夷が蜂起していた事もあり、幕府にとってもの最重要課題として問題視され、正中2年(1325)、宗家と思われる安藤又太郎から形式上利権を取り上げ、従兄弟で庶子家と思われる安藤五郎三郎に与えました。これは、安藤家の対立以前に蝦夷が蜂起したことを宗家である安藤又太郎の不手際として処断したものですが、当人にとっては承服出来る事ではなく、又、幕府の権威そのものも脆弱になっている事からその下知には従いませんでした。両軍は数千の兵を集め、堅城を築城し戦いましたが、なかなか決着が着かず、嘉歴元年(1326)には幕府の津軽得宗領代官で豪族である工藤氏や、曽我氏等に命じて掃討戦が行われ安藤又太郎は捕縛、鎌倉に移送されました。しかし、安藤又太郎に従った一族の1人安藤季兼が蜂起し神出鬼没な戦略を繰り広げた為に再び争乱となり、嘉歴2年(1327)幕府は再び小田常陸入道、尾張権守高知、宇都宮五郎高貞などを派兵しました。幕府側は大軍だったと思われますが、戦場は西浜と呼ばれた現在の深浦町周辺と推定され、平地が少なく、背後には急峻な白神山地が控えていた事もあり大軍が大規模な戦略的な行動が取れなかったと推察され、小部隊による奇襲戦術では地形に詳しい安藤軍に有利に展開し、幕府方の益子左衛門尉や芳賀弾正左衛門少尉などの武将が討ち取られています。結果的に双方決定的な勝利を収める事が出来ず嘉歴3年(1328)に和睦、しかし、幕府は一地方豪族の内乱を治める事が出来ず権威は大きく失墜し、この安藤氏の乱(津軽大乱)が鎌倉幕府滅亡の原因(遠因)の1つに挙げる人もいます。

ここからは推論ですが、「保暦間記」で記載された安藤五郎は元久元年(1204)〜貞応3年(1224)に代官となり津軽に赴任、この五郎は「秋田家系図」では安藤堯秀と同一人物として表現しています。そして「日蓮聖人遺文」で記載された2代目と思われる安藤五郎は建治元年(1275)に蝦夷によって首を切られ死去、この五郎は「秋田家系図」では資料が無く空白(70年)として3代目の五郎と思われる安藤五郎三郎は堯秀の孫である安藤愛秀として表現しています。その愛秀は幼少だった為に排斥又は幕府から代官就任を認められなかった為に居城である藤崎城から十三湊近くに居を構える事となり、新たに幕府から派遣された安東太(又太郎)が藤崎城に入り安藤家の宗家(代官職を引き継いだ)となったと思われます。ここで、愛秀(五郎三郎)と太(又太郎)との対立関係が生まれ安藤の乱(津軽大乱)に繋がったのではないでしょうか?因みに現在弘前市の長勝寺に残されてる嘉元4年(1306)に藤崎護国寺に奉納された「嘉元之鐘」には安藤季盛の銘が入っていますが、自論によると当時の藤崎城の城主と思われる安東太(又太郎)=安藤季長と推察します。

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