秋田・安東氏:南北朝動乱

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南北朝動乱

概要・歴史・観光・見所
嘉歴3年(1328)に安藤氏の乱が一応の決着が着くと愛秀(宗季)根城(八戸市)は元徳2年(1330)に嫡男と思われる堯勢(犬法師、師季、高季)に所領を譲渡し、これを持って秋田・安東家宗家の所領や利権を相続させたと思われます。元弘3年(1333)、堯勢の代で鎌倉幕府が崩壊、これにより堯勢は新政府(朝廷)側に与し旧勢力側と対峙、同年には旧幕府勢力だった名越時如(北条家一族)、安達高景(足立高景、元秋田城之介)等が鎌倉から旧領だった秋田に落ち延びさらに、曾我道性を頼り大光寺城に立て籠もった為、攻防戦に参加しています。新政府(朝廷)は周辺の豪族である安藤堯勢をはじめ、曾我光高、成田泰次、工藤貞行、多田貞綱、南部師行などに命じて大光寺城を攻めさせ翌、建武元年(1334)に落城、同年中には残兵も掃討されました。この功により北畠顕家から津軽平賀郡上柏木郷を与えられ、建武2年(1335)には旧領が安堵されましたが、現在知られている資料からは「蝦夷の沙汰」の権利が欠落している為、新政府に移行する際に失効したと思われます。北畠顕家が陸奥国の鎮守府将軍に就任した事もあり、当初は北畠家に従っていましたが建武3年(1336)に足利尊氏が光明天皇を擁立する事で北朝を掌握し、排斥された後醍醐天皇が南朝を開くと、北朝方(足利尊氏)に与しました。理由は諸説ありますが、概ね津軽地方の鎌倉時代からの豪族は同じように北朝に与している為、秋田・安東氏と同様に恩賞が基本的に無く、一部利権の剥奪などがあり、一方で鎌倉幕府滅亡に功があった南部家は糠部郡が与えられる等優遇された事に不満が募ったと思われます。そのような中、秋田・安東氏は北朝方からは津軽の有力豪族として重要視され建武3年(1336)には弟とされる安藤家季が北朝の有力武将である斯波家長から津軽合戦奉行(北奥一方検断奉行)を命じられ南朝方に与した南部家の拠点である根城(八戸市)に侵攻しています。さらに、北朝方の奥州総大将に石塔義房が就任すると弟に替わり堯勢が合戦奉行に就任し引き続き重要豪族の地位を確立、家系図的は堯勢、貞季、盛季、康季の3代が南北朝の動乱を対処した当主となっています。又、秋田家系図によると盛季の生母が奥州国守北畠顕家の娘と記載されている事から盛季の父親と思われる貞季は南朝方の有力武将から正室を迎え入れた事になります。北畠顕家は1338年、享年20歳で死去している事から応永21年(1414)に盛季が52歳だった事は余り不自然ではありません(もし、本当だとしても、当然、顕家が直接安東家と血縁関係を結んだとは考えらず、娘が他家に引き取れた後に政略結婚させられたという事だと思います)。一方、自論ですが建治元年(1275)直後に十三湊に居を構えた愛秀が10歳程度だとすると、家督を堯勢に譲った元徳2年(1330)には45歳程度、堯勢は25歳程度、貞季は5歳程度なので一応の辻褄が合っているようです(20歳前後に生まれた子供を家督相続させたと想定した)。跡を継いだ康季は北畠顕元の娘を正室に迎えていると記載されている事から南朝方とも考えられます(年齢等からこれらの関係は疑問視されています)。これが事実とすると、北朝方と思われた秋田・安東氏は時と場合によって北朝、南朝を柔軟に対処していたと思われます。南北朝の動乱が北朝の圧倒的な有利の中、南北朝合一が成ると津軽地方で北朝方の有力豪族として活躍した秋田・安東氏も最盛期を向かえ、旧領に加え出羽国や夷島に進出、本拠である十三湊も「三津七湊」に数えられる程の全国有数の湊として発展し、再び「日之本将軍」の称号を得ています。

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