秋田・安東氏:下国家(檜山家)

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下国家(檜山家)

概要・歴史・観光・見所
下国家(檜山家): 応永年間初期に秋田・安東家宗家である安藤盛季の弟鹿季が上国家を起こした事を受け、宗家を下国家と呼ぶようになったとされます。前述の通り家系図や、文献、第三者が編纂した資料の中で出てくる人物名が年号等がバラバラで正確な事は不詳ですが、概ね、安東氏は中世十三湊を拠点として、中世の城として東北最大規模の城郭を築き、全国有数の国際港を所有、周辺には荘厳な社寺仏閣を多数創建し、津軽から遠く離れた若狭国小浜(現在の福井県小浜市)の地で羽賀寺という大寺院の再建を天皇の勅願により完遂、蝦夷管領や日之本将軍といった他の豪族では見られない特殊な官職を有していました。それが信頼の高い資料では永享4年(1432)、低い資料では嘉吉3年(1443)に三戸南部家の侵攻により秋田・安東氏は領地である津軽を離れ蝦夷地に逃れたとされます(両方の説を合わせて、安東家は2度蝦夷地に撤退したとの説を唱える人もいます)。その後、安藤義季が津軽復帰を画策しますが享徳2年(1445)又は享徳3年(1446)に敗北、自刃し親戚筋の潮潟四郎家から政季を迎え宗家を存続させたとされます。

秋田氏・安東氏家系図
 ・ 盛季(下国家初代)→康季(下国家2代)→義季(下国家3代:宗家直系断絶)→政季(下国家4代:潮潟四郎2男)

安東政季: それでは、下国安藤政季とはどの様な人物なのでしょうか?政季は下国安東家直系の最後の当主安藤義李から見ると祖父である盛季の弟である潮潟道貞の孫で再従兄弟、6等親離れた存在で、通常宗家を継ぐような立場では無かったと思われます。書籍によっては政季は31歳の若さで死去した為に嫡子がいなかったと書かれていますが、当時は10代で結婚し平均寿命が40〜50歳と考えると十分に熟年で子供も複数人いる方が自然に見えます。父親の康季や祖父の盛季にしても没年は系図によってまちまちですが、活動年間をみても熟年期まで生きていた事は確実で、兄弟、子供も複数いたと思われ、南部家との戦いで皆討死したといえばそれまでですが、何とも解せない話ではあります。一方、「新羅之記録」では蝦夷の大館館主である下国定季を義李の弟としています。それであれば下国安東氏の正統血統は下国定季になる訳ですが、何故か遠戚である筈の安藤政季が宗家を継ぎ、その政季は何故か縁が薄い出羽男鹿まで下り、定季の子供である恒季は何故か宗家である檜山安東忠季(政季の子供)が蝦夷地まで遠征し討ち滅ぼしています。

私的考察 ⇒ [ 何故、安藤政季は下国家安藤家宗家に就任出来たのか? ]
私的考察 ⇒ [ 何故、安藤政季は格下のはずの上国家の要請を聞き入れたのか? ]

「新羅之記録」の記録によると下国安藤政季は永享4年(1433)に足利将軍義政による説得により南部家と下国安東家が和睦した際、南部家14代当主南部義政の娘と潮潟四郎道貞との政略結婚で出来た子供とされ、宝徳2年(1450)に南部家の侵攻により潮潟家は事実上滅亡し、政季は捉えられたとされます。その後、下国安東氏の名跡を継ぎ名も師季から将軍義政の「政」の字を賜り政季に改称し、田名部(現在の青森県むつ市)に配されたとされます。下北半島を脱出したのが享徳2年(1453)に義李が自刃した翌年の享徳3年(1454)で、武田信広、相原政胤、河野政通の3名の手引きによるもので、政季が蝦夷地に着くと蠣崎季繁を頼りに体制を建て直し、康正2年(1456)には道南十二館に一族家臣を配し、さらに領内を「下ノ国」、「松前」、「上ノ国」の三地区に分け、「下ノ国」には茂別館の安東家政、「松前」には大館館主の下国定季、「上ノ国」には花沢館館主の蠣崎季繁の3人を「守護」に任じ所謂「3守護体制」を敷くと、同年、同族で上国安東尭季(惟季)の招きにより秋田小鹿島に移り住んだと記されています。

私的考察 ⇒ [ 何故、和睦の条件が潮潟四郎重季と南部義政の娘との婚儀なのか? ]
私的考察 ⇒ [ 何故、安藤政季は宇曽利(下北半島)に配されたのか? ]
私的考察 ⇒ [ 何故、安藤政季は下国家安藤家宗家に就任出来たのか? ]
私的考察 ⇒ [ 何故、安藤政季は僅か2年で道南部の体制を築けたのか? ]

以上を踏まえると、まったくの個人的な感想ですが「新羅之記録」の下国安東政季の部分については殆ど全て創作されたと考えています。自分の創作では南部家系又は源義光(新羅三郎)の後裔を自称する身分の低い武田信広は南部家からの独立を画策し、失敗、蝦夷地に逃れ下国安東家の家臣蠣崎季繁に取入ります。下国安東家は当主である義李が享徳2年(1453)に自刃すると、義李の弟である下国定季が掌握し康正2年(1456)には体制を整えます。しかし、康正3年(1457)のコシャマインの戦いで大打撃を受け宗家の権威が失墜。その間隙を受けて武田信広は蠣崎家を乗っとり、信広の跡を継いだ蠣崎光広(信広の子供)は弱体化した下国安東家を継いだ恒季を攻め滅ぼし、版図を広げ道南部統一基礎を固めました。松前氏時代になると、先祖の謀略や家系などを操作し「新羅之記録」にまとめ、自らの正当性を強化したと思われます。

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