秋田氏・安東氏:安日彦(安日王)

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安日彦(安日王)

概要・歴史・観光・見所
秋田・安東氏は祖先を安倍貞任、遠祖として安日彦を挙げています。安日彦と呼ばれても通常では知らない人も多く、当時の朝廷の正式な歴史書である「古事記」や「日本書紀」にも登場してこない事から実在を疑問視される存在で、安日彦の名が知られるようになったのは鎌倉時代から室町時代に編纂されたという「曽我物語」で鬼王安日の伝記が記載されるようになってからとされます。それによると、秋津島(日本)は現在の天皇の祖とされる神々が治めた神代という時代があり、その後、る安日鬼王という為政者が現れ7千年間治めた後、神武天皇によって鎮められ、安日鬼王は津軽地方(外の浜)に追放され蝦夷の祖になったとされます。「曽我物語」は事実を一部反映させているものの、基本的には軍記物の類である事から歴史的な資料性という意味では価値が低く捉えられています。一方、日本神話の中で神武天皇の東征に最後まで抵抗した長髄彦という存在があります。長髄彦は所謂「天孫降臨」で邇邇藝命が高千穂峰へ天降る、以前に葦原の中つ国(日本)に降臨した饒速日命の家臣で、妹が饒速日命の妻という関係で、大和地方の有力な豪族だったとされます。結果的に饒速日命が神武天皇に下った後も抵抗を続けた為に饒速日命によって殺害されとも自刃したとも津軽や陸奥に落ち延びたとも云われています。同じく神武天皇に抵抗した事から安日彦は長髄彦の兄とも同一人物とも云われています。一方、アイヌ語で「アぺ」=「火」、「カムイ」=「神」という意味で「アペカムイ」=「火の神」として信仰の対象になっていたとされ、この「アペ」が転じて「アビ」=「安日」となった説もあります。ようするに、安日彦又は安日王の題材となった存在はアイヌ人、又は蝦夷の人々の元々の土着神で、その事を知った中世の「曽我物語」の作者が当時の流刑地だった津軽地方の土着神が中央政府から排斥された一族とあたかも関係があるように創作したとも考えられます。

江戸時代初期に秋田実季によって編纂された秋田家系図によれば、安日彦は長髄彦の兄とし摂津国胆駒岳を領していましたが、神武東征により長髄彦が死去した後に津軽に逃れたとしています。同じく永承3年(1506)に編纂された「藤崎系図」も同様に長髄彦の兄安日彦の後裔にあたる安倍貞任の子供である高星を初代としています。これとは別に「安藤系図」では阿部比羅夫を祖とし、その後裔が安倍貞任で貞任から見て曾孫にあたる安藤太郎季任を初代としています。阿部比羅夫とは、7世紀中期(飛鳥時代)の日本の将軍の1人で蝦夷征討の為、朝廷から派兵され、現在の秋田県北部や青森県、北海道の日本海側から上陸し蝦夷を服属させ郡境を定めた人物とされます。阿部比羅夫は天智2年(663)の白村江の戦いで征新羅将軍として派兵されている事から蝦夷地に土着したとは考えにくいですが、地元の首長の娘など懇意にしていたのかも知れません。その他にも大毘古命の子供である建沼河別命(武渟川別命)が蝦夷地平定の為に遠征してきた際、当時の棟梁である安東(やすはる)が加勢して大功を挙げた為、安部の姓を賜り大毘古命を祖として崇めたとも云われています。何れにしても余り根拠がなく、家伝として伝えられていたものを家系図という形で追認したのが現実と思われます。又、単純に安部氏の祖神という点では「伊勢国風土記逸文」に伊賀の阿倍志彦の神が伊勢都彦の築いた石の城に侵攻し撃退された事が記載されている事から、古代の伊賀に阿部一族が存在し、神武東征の経路からは外れているものの隣国でもあり何らかの抵抗を見せたのかも知れません。

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