湯沢市院内: 院内銀山

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院内銀山
院内銀山
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院内銀山 院内銀山 院内銀山 院内銀山
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概要・歴史・観光・見所
院内銀山概要: 院内銀山は慶長11年(1606)村山宗兵衛らが発見したのが最初だと言われています。それ以降、久保田藩が開発に乗り出し慶長14年(1609)には家老である梅津主馬助川左門羽石内記が山奉行として院内銀山に赴任し、銀山入り口には十分一御番所(院内銀山に納入する物資は10分一の税金が掛けられ番所で徴収された)が設けられました。良質の銀が採掘が続けられると鉱山町も発展し元和3年(1617)には1300戸、7100人が住み、中には関が原の戦いの落ち武者や旅芸人、遊女、文化人、医者など多くの職種の人々が集まり「出羽の都」と呼ばれる程に繁栄し久保田藩の財政に大きく寄与しました。江戸時代中期以降減産が続き衰微しましたが文化4年(1807)に新たな鉱脈を発見し再び主要な銀山となり最大時には年間約3800kg、日本一の産出量を誇り4000戸15000にとなり当時の藩都である久保田城の城下町をしのぐほどだったと伝えられています。明治時代に入り久保田藩が廃藩になると小野組に払い下げとなり明治9年(1876)工部省に所管が移ると近代化が図られ明治12年(1879)にはドイツ人技師バンザー・ロージングの両名を招き最新式諸機械が導入され院内銀山には洋風建築(異人館)などが建てられました。明治14年(1881)9月21日には明治天皇が院内銀山を御臨幸され坑内や工場などを御巡覧し、後に御覧しなった5番坑は御幸坑と呼ばれ入り口部分が保存されています。明治17年(1884)に古河市兵衛に払い下げになるとさらに近代的な銀山として開発され明治時代中期には全国第4位にあたる年間15トンを産出しています。その後、減産と銀価の下落により大正9年(1920)に採掘が停止となり昭和29年(1954)に全山全休となりました。院内銀山には11の寺院がありましたが現在建物で残っているは金山神社と正楽寺(昭和中期まで存続)の仮堂だけになってしまいました。院内銀山三番共葬墓地は墓石に江戸時代の年号も多数あり、その歴史を語っています。同時に無縁のものも多く、日本各地から入山し命を落としていったことも示しています。明治天皇が御巡幸された御幸坑は、当時、抗内や諸工場を御巡覧なされることは大変だったらしく壁画にもなり、この日が鉱山記念日となりました。院内銀山は昭和48年(1973)に秋田県指定史跡に指定されています。院内銀山は日本三大銀山(半田銀山(国見町指定史跡:福島県国見町・桑折町)・石見銀山(世界遺産:島根県大田市)・生野銀山(兵庫県朝来市)・院内銀山(秋田県指定史跡:秋田県湯沢市)・延沢銀山(国指定史跡:山形県尾花沢市))とされます。

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