羽後町: 西馬音内城

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西馬音内城
西馬音内城
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概要・歴史・観光・見所
西馬音内城(羽後町)概要: 西馬音内城の築城は建治3年(1277)、当時、稲庭城を居城として平鹿郡、雄勝郡を領した小野寺経道が次男道直に築かせたのが始まりとされます。当地は小野寺家が本拠とした稲庭と由利地方を繋げる本荘街道が通り、雄勝郡と由利郡との郡境でもあり交通の要衝でもあり軍事拠点として重要視されました。道直の家系は西馬音内小野寺家として300年以上も城主を歴任し宗家小野寺家の有力一族として大きな影響力を持ちました。特に西馬音内城8代城主小野寺茂道は宗家当主の輝道の長子で天正14年(1586)の有屋峠合戦などに参陣し活躍しています。又、茂道の娘が由利十二頭の矢島五郎満安(八森城主)に嫁いだ為に矢島氏とも関係が深く天正16年(1588)、仁賀保挙誠に敗れた満安を西馬音内城に匿っています。この行為は宗家である横手城の城主小野寺義道から謀反としてとられ、西馬音内城には同じ一族である大森城の城主大森康道を総大将とする800名の兵が差し向けられました。満安は身の潔白を証明する為に自刃、茂道は最上家を頼った為、最上義光が雄勝郡に進出する原因の1つとなってしまいました。慶長5年(1600)の関が原の戦いでは当初は東軍に属するものの、宗家小野寺家は最上家への積年の恨みから西軍に転じて、失われた雄勝郡の奪回に湯沢城を急襲、茂道も再び宗家に呼応しました。最上家の主力が上杉家と対峙していた事もあり初戦は小野寺家有利に展開していましたが、関が原の本戦で西軍が敗れると、上杉家も自領に引き上げた為、翌年慶長6年(1601)に最上軍が本格的に小野寺領に侵攻、茂道は西馬音内城に自ら火を放ち、庄内地方に逃れ、小野寺宗家も降伏し大名家としては没落しています(宗家は石見国津和野に配流、茂道の子孫は新庄藩や久保田藩の藩士として仕えました)。西馬音内城は標高172mの山頂付近に築かれた中世の山城で外堀に見立てられた西馬音内川で削られた断崖を城壁とする要害でした。最高所には本丸が配され東西100m、南北50mの平場が形成され現在でも井戸や庭園の跡が見られます。一段低い場所が二の丸で約600uの細長い敷地の先端には櫓台を設けて登城口からの道が櫓の下を通るように工夫されています。その他にも小規模の郭と思われる平場や空堀、土塁跡などが数多く見られ当事の遺構が残されています。又、西馬音内城が廃城の後、残された城門の1つが小野寺家の菩提寺である西蔵寺の山門に移築され羽後町指定文化財に指定されています。西馬音内城の跡地(総面積231.855u)は歴史的由緒があり城跡としても貴重である事から昭和63年(1988)に秋田県指定史跡に指定されています。

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