横手城配所跡: 本多正純墓碑

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本多正純墓碑
本多正純墓碑
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本多正純墓碑 本多正純墓碑 本多正純墓碑 本多正純墓碑
概要・歴史・観光・見所
本多正純墓碑(横手城配所跡)概要: 本多正純は永禄8年(1565)、本多正信の嫡男として生まれています。正信は徳川家康の側近の1人でしたが、三河一向一揆で徳川家と敵対し、一揆が鎮圧させると出奔し松永久秀の家臣となっています。その後、大久保忠世の取り計らいにより徳川家家臣に復権すると父子共々篤く取立てられ特に知略、謀略に大功がありました。家督を譲られた正純は慶長5年(1600)の関が原の戦いに参陣しその功により小山領3万3千石が与えられ小山藩初代藩主となっています。その後は家康の側近中の側近として、何時しか「家康の懐刀」とまで称される程に大きな影響力を行使出来る立場となりました。当時、家康は3男徳川秀忠に家督を譲り大御所として駿府城(静岡県静岡市)で政務を執っていましたが、江戸城では2代秀忠も政務を行い2元政治と呼ばれる体制を採っていました。秀忠陣営ではこのような政治体制を快く思っていない家臣も多く、特に秀忠の側近だった大久保忠隣は本多正純を敵視していました。慶長19年(1614)、大久保長安事件により忠隣を連座させると、幕政での本多家父子の影響力がさらに高まりました。元和2年(1616)、家康が死去した事で正純は秀忠の側近となりましたが、元々の側近だった土井利勝などと対立、そのような中、元和2年(1616)には2万石が加増され5万3千石となり、さらに元和5年(1619)に宇都宮藩15万5千石の藩主に抜擢されるなど益々嫉妬の羨望を受ける事態となっています。元和8年(1622)、山形藩最上家が御家騒動により改易となり、正純は山形城(山形県山形市)の接収の為山形に赴いた最中、突如として「11か条の罪状嫌疑」が突き付けられ正純は、本荘藩5万5千石転封が命じられました。正純にとっては全く身に覚えのない事だったことから命令を固辞すると、幕府の裁定に不服があるとして本多家は改易となり出羽大沢郷(秋田県大仙市大沢郷宿)に捨扶持1千石が与えられました。その後、その1千石も取り上げられ久保田藩の佐竹義宣に預けられ横手城近くの根岸に軟禁されました。軟禁場所は薄暗く、出入口には看守人が付けられ厳重に管理されていたとされ失意の内寛永7年(1630)、嫡男本多正勝死去、享年35歳、戒名「傑叟院殿雄山英公大居士」、葬儀は横手城の城下にある大儀山正平寺で執り行われました。寛永14年(1637)、本多正純死去、享年73歳、戒名「慧光院殿鐵顔宗智大居士」、葬儀は同じく正平寺で執り行われました。当初、墓碑は正平寺境内にありましたが、現在は本多家配所跡地に移されています。11か条の罪状嫌疑とは所謂「宇都宮城釣り天井事件」などと揶揄されるもので、秀忠が日光東照宮に参拝の後、宇都宮城で宿泊する予定にあわせ、宿所の天井が下がり圧死させるように画策し無断で宇都宮城を改築、修築したという嫌疑が掛けられました。その後、宇都宮城の実地調査したもののそのような痕跡が見つからず改易の理由は今もって不詳とされています。正純は政敵が多く、秀忠に対してもきつく意見していた事もあり不快な存在だったようです。

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