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鹿角市花輪概要: 鎌倉時代、鹿角市一帯は安保氏が地頭として治めていました。特に鹿角郡は鹿角4氏と呼ばれる成田氏、奈良氏、安保氏、秋元氏によって支配されていましたが、戦国時代になると秋田氏(安東氏)と南部氏と領地が接していた事で何度も抗争が続けられれました。その背景には鹿角市周辺には尾去沢鉱山をはじめ多くの良質な鉱山の所有権争いがあったと見られ、1560年代には秋田氏、南部氏が短期間に何度も支配が交代しています。奥州仕置きによって鹿角郡の支配は南部氏が安堵されますが、江戸時代に入っても秋田藩や弘前藩と藩境である為、軍事的にも重要視され鹿角市には花輪と毛馬内に陣屋構えの「要害屋敷」を設け重臣を配置します。花輪要害屋敷には延宝2年より中野直保が赴任し城下町や街道の整備などを行い明治維新までこの地を統治します。戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に参加した南部藩が鹿角市を通り官軍側の秋田藩に攻め込みますが、時勢に逆らえず降伏し、鹿角郡は秋田藩に組み込まれます。現在の鹿角市中心部の商店街は秋田県内にはめずらしく、密度感が非常に好感がもてる町並みです。人、建物、道路の関係は意外と関係が深く、便利だからといって道路を拡幅したり、建物が以上に高かったりすると、人にとって疎外感を感じさせたり、圧迫感を感じたりします。結局人は居心地がいいところが好きなのだと思います。鹿角市中心部の山側にはまだ共同井戸「おせど(オセド)」が数箇所残っていたり、川を挟んで小さな飲み屋街もあったり、「花輪の朝市」など開かれていたりで、なかなかバライティーに富んでいるが鹿角市花輪の町並みの特徴だと思います。鹿角街道沿いには道路の拡幅工事の際、数棟の町屋(旧関善酒造)が引屋をして移築されており、「こみせ」と呼ばれる雪国独特の町屋の形式を今に伝えています。このように積極的に古い町並みを残す事は鹿角市のだけでなく秋田県内全体のためでもあり、花輪の住んでいるここ粋を感じます。一本内側に入ると旧鹿角郡公会堂(鹿角市指定文化財)周辺は当時の城下町の雰囲気が残っていたり、舟運の名残も見られます。又、鹿角市は万葉の里であり歌枕にもなった「錦木塚」があったとされています。歌枕になるような場所は秋田県内に他はありません。現在の花輪のまちの中にもそれらの句が飾られていますが、もっとアピールしても良いと思います。それらをキーワードにした花輪独自のまちづくりが出来たら意外とおもしろいかもしれません。
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鹿角市:花輪 |
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