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秋田市概要: 秋田市は古くから北部出羽国の中心だった地域で、和銅5年(712)に出羽国が立国すると朝廷はさらに北進を続け天平5年(733)に現在の秋田市高清水に出羽柵が設けられました。当初は出羽柵に国府が置かれ文字通り出羽国の中心となりましたが、蝦夷の抵抗も強く国府は現在の山形県にまで後退(酒田市・城輪柵が有力)、出羽柵は秋田城として大和朝廷の最前線拠点として機能しました。平安時代後期になると朝廷の権力も衰退し秋田城も廃れましたが、役職である秋田城介は象徴として残り、鎌倉時代の御家人安達氏が当地を与えられると秋田城介を名乗っています。戦国時代に入ると十三湊(青森県五所川原市・十三湖)を中心に北部津軽を支配していた安東氏が南下し現在の土崎港に拠点の1つ湊城を築き、湊安東氏を名乗るようになり大きな影響力を持つようなります。一族である檜山安東氏と統一すると出羽北部最大の大名となり実石12〜15万石を擁しますが豊臣政権下では5万2千石(その他に蔵入地2万6千石の管理)しか認められず、さらに関が原の戦いでは東軍として行動するも最上家の讒訴で宍戸藩(茨城県笠間市)5万5千石と衰退しています。代わって、常陸から佐竹義宣が20万6千石で入封し秋田氏(安東氏)の本拠だった土崎から久保田に城を移し久保田藩を立藩、藩の軍事、行政、文化の中心として現在の秋田市の基礎となる町づくりを行っています。戊辰戦争では新政府軍として戦い、奥羽越列藩同盟である庄内藩、盛岡藩、仙台藩から侵攻され久保田新田藩の椿台陣屋までが戦場となりましたが、政府軍の増援により勝利を得ています。
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秋田市:観光・見所 |
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