E 何故、安藤政季は下国家安藤家宗家に就任出来たのか?
何度も言いますが安藤政季が下国家の当主になれる可能性は基本的にありません。あるとしたら、その当時の最高の実力者が後ろ盾になるしかありません。しかし、そうなればその実力者が自ら下国家の当主になればいいだけの事なので、全くこの話は荒唐無稽の事なのです。享徳2年(1453)、最後の下国家の当主とされる安藤義季が死去しています。これは、秋田・安東氏側の家系図である程度共通している事から動かしようの無い事実とされます。そして津軽の遠征中、南部軍に敗北して自刃、これも大まか合っていると思われます。安東氏が蝦夷地に逃れて20年以上の歳月が過ぎ、この位の時間があれば当然道南部の掌握や軍備の増強など準備も万端で矛盾は感じられません。その遠征に絶対必要なのが新たな本拠地である蝦夷地での支援です。当然、武器や食糧の補給や補給路の確保、後詰の部隊編成、領内の治安維持や経営など、それを指揮した安東家の中でもNO2、又はNO3にあたる人物がいたはずですし、それを支える有能な家臣もいたと思われます。義季の享年が31歳と家系図で記載されている事からも、複数人の子供や、兄弟、叔父、従兄弟などがいたと考えるのが普通で、南部家との戦いで大部分が討死したとしても、その一部は蝦夷地に撤退しているはずですし、上記のように留守部隊にもいたはずです。その様な中、安東氏側から見ると正体不明の武田信広が連れた政季を容易に受け入れたとは考えられないし、もし、政季を擁立しようとする野心家がいたとしても、極めて少数派で、主流派になるには相当の時間と血が流れるはずです。複数の書籍をみましたが、多くがこの問題に触れる事なく、とりあえず「新羅之記録」を事実のように採り上げ安藤政季が蝦夷地に着いた時点で下国家の宗家に就任したように記載しています。中には疑問を持った人もいたようで、安藤義季が生前に養子として政季を受け入ていた説や、南部家在中に傀儡として下国家の宗家に仕立てられたという説を唱える人もいます。戦国時代では家督相続を巡り大きく家禄を失ったり弱体化を招く例が幾らでもあるはずなのに、疑問視する方が自然と思われます。
「新羅之記録」の疑問
@ 何故、安藤氏は2度津軽を離れたのか?
A 何故、安藤氏は1度目に南部家と和睦出来たのか?
B 何故、和睦の条件が潮潟四郎重季と南部義政の娘との婚儀なのか?
C 何故、安藤政季(師季)は殺されなかったのか?
D 何故、安藤政季は宇曽利(下北半島)に配されたのか?
E 何故、安藤政季は下国家安藤家宗家に就任出来たのか?
F 何故、安藤政季は僅か2年で道南部の体制を築けたのか?
G 何故、安藤政季は格下のはずの上国家の要請を聞き入れたのか?
H 何故、安藤政季は藤崎城に侵攻したのか?
I 何故、安東忠季は下国恒季を討ち取ったのか?
J 何故、安東尋季は蠣崎光広に「松前」守護職を認めたのか?
K 何故、安東舜季は蠣崎家とアイヌとの講和に立ち会ったのか?
L 愚痴と総括
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