能代市檜山: 檜山城(霧山城)

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檜山城
檜山城
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概要・歴史・観光・見所
檜山城(霧山城)概要: 檜山城の築城年には諸説あるます一般的には明応4年(1495)、安東政季、忠季2代に渡り築いたのが始まりとされます。安東氏の出生について不明な点が多く謎とされ前九年合戦で源頼義に敗れた安倍貞任の後裔を自称しています。鎌倉時代から室町時代中期にかけて津軽半島を掌握し十三湊青森県五所川原市)を本拠しにして日本海沿岸に影響力を及ぼし奥羽十三湊日之本将軍の異名があり、若狭国小浜(現在の福井県小浜市)に境内を構える羽賀寺の大檀那として本堂を造営しています。享徳3年(1454)、南部家の侵攻により本城だった福島城が落とされ一時蝦夷地(北海道)に逃れましたが逸早く出羽秋田郡に本拠を移していた湊安東家の尽力により康正2年(1456)、男鹿半島にある染川城に移り、政季の代により津軽に近い檜山城の築城を開始しました。檜山安東氏は山本郡を掌握すると、続いて浅利氏が支配する比内郡も一族の浅利勝頼を調略した事で宗家を永禄5年(1562)に滅亡させ、さらに天正10年(1582)謀反の疑いで勝頼を檜山城の城内で忙殺しました。天正7年(1579)、安東愛季の代に湊安東家との統合が図られ、それに反発した豊島玄蕃を討伐し、さらにその隙を突いて秋田領に侵攻した大宝寺氏を破った事で山本郡、比内郡、秋田郡、由利郡、河辺郡を略掌握し安東家の最大版図を築き上げました。天正15年(1587)、角館城の城主戸沢家との戦いの最中愛季が病死すると、跡を継いだ実季が幼少だった為、安東家に従っていた国人領主達が独立を計り、特に形式的に湊安東氏を継いでいた従兄弟の安東友季も反旗を翻した為、総崩れとなり檜山城に引き上げました。その後も浅利氏の離反などが続き劣勢に立たされましたが由利勢が湊安東氏方を明白にした事で風向きが変わり湊合戦では檜山城に実に150日間篭城して勝利すると反転攻勢に転じ天正17年(1589)に湊城秋田市土崎)を落城させ、さらに浅利氏を滅ぼした事で旧領に近い晩図を回復しました。実季は本城を湊城に移しましたが檜山城は重要拠点の1つとして維持され家臣である大高相模が城代として赴任しています。慶長7年(1602)、秋田氏(実季は秋田城之介を襲名し以後、秋田氏を称した。)が宍戸藩(茨城県笠間市)に移封になると変わって佐竹氏久保田藩に入封し檜山には小場義成が配され、慶長15年(1610)に義成が大館城に移ると、変わって佐竹氏の一族である多賀谷佐兵衛宣家(久保田藩初代藩主佐竹義宣の弟)が1万石で檜山所預として配されます。宣家は檜山城を近代的な城郭にする為に大改修しますが慶長20年(1615)一国一城令が発令されると久保田藩では本城の久保田城と支城である大館城、横手城以外は破棄され檜山城も廃城となります。多賀谷氏は檜山城の麓に陣屋構えの館を構え檜山所預を歴任しています。檜山城は、標高147mの霧山山頂に築かれた中世の山城で、蝦夷館式馬蹄形山城と呼ばれ、尾根全体を多くの曲輪や堀切などを配した天然の要害を成しています。全国的に見てもその規模(東西1500m×南北900m)や保存状態などから大館跡、茶臼館跡、国清寺跡(安東氏の菩提寺)と共に昭和55年(1980)に国指定史跡に指定されています。

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