秋田・安東氏: 十三湖・福島城

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十三湖・福島城

概要・歴史・観光・見所
秋田・安東氏の代名詞や象徴的な存在とされる十三湖ですが、何時頃進出したのかは特定されていません。十三湖周辺の遺跡としては、日本三津七湊に数えられた十三湊遺跡や居城とされる福島城、山王坊遺跡、浜明神遺跡など数多く点在し、奥州平泉や当時国際湊として発展していた博多湊にも匹敵するとも言われています。

福島城: 十三湖福島城(五所川原市)の築城年は不詳ですが発掘調査により平安時代末期の10世紀後半から11世紀遺物が発見されている事からその頃から築城されていた可能性があります。秋田・安東氏の家伝通りだとすると、その頃は岩手県中央部に進出して俘囚長などを歴任していた頃であり初期の築城者は別にいる事になります。一方、奥州藤原氏第3代当主藤原秀衡の弟藤原秀栄は十三湖の近辺に移り住み十三氏を少子周辺を支配したとされ寛喜元年(1229)に当時の当主十三秀直が萩の台の戦で安東氏に敗れ滅ぼされたとあります。これだと十三氏は12世紀から13世紀に活躍した事になり福島城を利用した可能性はあるものの築城者ではないようです。「保暦間記」によると鎌倉幕府の執権が北条義時の代(元久元年:1204年〜貞応3年:1224年)に津軽の代官として就任した安藤五郎の存在があり、想像の域を出ませんが、代官に就任した事で利権関係で十三氏と対立関係になったとも考えられます。又、北条義時が津軽の田舎郡、鼻和郡、平賀郡の3郡を直轄領とし田舎郡に工藤氏、平賀郡に曽我氏、鼻和郡に笠原氏、二宮氏にそれぞれ配した為、秋田・安東氏の居城とされる藤崎城から十三湖周辺に移封を余儀なくされ、結果的に十三氏を滅ぼしたとも考えられます。さらに、「地蔵菩薩霊験記」によると安東五郎は鎌倉武士で蝦夷の敵を討つ為に派兵され見事敵を討ち取ったとの記載されている事から、俘囚の流れを汲む奥州平泉藤原氏の生き残りである十三氏を掃討する為に安東五郎が鎌倉から直接派兵され十三氏を滅ぼしたとも考えられます。ただし、「安東氏系図」によると安藤五郎に見立てられた安東堯秀の先代の安東貞季が福島城を攻略したとされ十三湖周辺に住まうようになったのは堯秀の70年後の当主である安東愛秀(愛季)の代とされます。

秋田氏・安東氏家系図
 ・ 安倍貞任→高星丸→貞季(福島城攻略?)→堯秀(安東五郎、代官)→70年空白→愛秀(愛季:十三湖進出?)

ここあたりは全く理解出来ませんが、福島城:城門鎌倉時代初期の秋田・安東氏の支配地域は津軽半島から現在の青森県の日本海沿岸までで、鎌倉時代後期になり下北半島の北部まで進出したと思われますが、一方、居城とされる藤崎城は平賀郡にあり執権北条家配下の曽我氏が配されていました。自然に考えれば自分の支配地に居城があるのが普通と考えられますがそのような記録が残っていないようです。どこを基準にして考えれば良いか分かりませんが、安藤愛秀の代に十三湖周辺に移り住んだようで、一方、居城だった藤崎城には弟又は従兄弟とされる安藤又太郎が城主となり秋田・安東宗家を継いだようです。自論では宗家だったと思われる2代目安藤五郎が建治元年(1275)に蝦夷により討たれ、本来跡を継ぐはずの愛秀が排斥又は代官を罷免され、居城である藤崎城から追い出される形で十三湊に居を移し、代わって幕府から派遣された又太郎が代官職と藤崎城を引き継いだと思われます。十三湊跡の発掘調査によると13世紀後半に築かれたと思われる安藤氏館や武家屋敷が発見されている事から、これらは愛秀によって整備されたと思われます。安藤愛秀は五郎三郎や宗季、季久などと同一視される人物で、「安藤氏の乱」の当事者とされ、結果的に宗家を継いだ又太郎が幕府により追討され愛秀が宗家を継いでいます。内乱は嘉歴3年(1328)に和睦という形で終結した事から福島城の改修や十三湖周辺の整備はこの後に本格化したと思われます。又、他の説では正和年間(1312〜1317)に安藤貞季によって福島城を築いた(修築?)したとの文献もあるようですが年代的には理解出来ますが、貞季は愛秀から見ると曽祖父又は孫にあたる人物の為、少なくとも人名か修築年代は異なると思われます。

福島城は十三湖の北岸に、標高約20mの丘陵に位置し、約62万5千u、一辺が約1km福島城:土塁の三角形をした外郭の内部に東西約180m、南北約170mの内郭があり、それぞれ大規模な土塁と空堀によって区分けされ要所には虎口や城門、井戸などが配されていました。規模は近世以前の城郭としては東北地方最大で、中世の城郭というより古代城柵に似た構造とされ、土塁上には柵列があり、10世紀半ばから12世紀初期にかけて蝦夷の集落で見られた環濠集落(防御性集落)にも似た構造を見る事が出来るそうです。十三氏が十三湖を支配した以前からの遺物が発見されている事からも、大規模な防御性集落跡を十三氏や秋田・安東氏が城郭として整備拡張したと思われます。当初は中世以降の遺物すら発見されなかった為、伝承に反して城郭では無かったとの見解もありましたが、近年の調査により武家屋敷跡と思われる痕跡があるなど本格的な城郭施設だった証明されています。ただし、中世の遺物が少ない事に変わりなく、秋田・安東氏は普段は十三湊に設けられた安東氏館を居館として利用し、福島城は特別の時だけに機能したと思われます。

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