久保田藩:角館所預

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久保田藩:角館所預概要
久保田藩:角館所預概要: 慶長7年(1602)、佐竹義宣が久保田入封に先立ち、家臣である須田盛秀が角館に入り旧領主である戸沢家から角館城を受け取りました。翌年、盛長が横手に移されると代わって芦名義勝が1万5千石で角館城に入り、以後、3代に渡り芦名家が支配します。角館の地は戦国時代、当地域を支配した戸沢家の本拠があった場所で、隣接する南部藩との藩境に隣接し盛岡に通じる生保内街道が通っていた事から重要視され、慶長20年(1615)、一国一城令が発令後も所預と称する陣屋構の館を持ち小城下町を形成しました。芦名家は戦国時代、黒川城(現在の会津若松城:福島県会津若松市)の城主で南奥羽を支配する大大名でしたが天正17年(1589)摺上ヶ原の戦いで伊達政宗に敗れ、本家である佐竹家のある常陸に逃れました。小田原の役で功を挙げ、江戸崎4万5千石の大名復権するも関ヶ原の戦いで佐竹本家と連座し改易となり久保田藩の客分として遇されました。芦名3代千鶴丸は幼少時に転落事故で死去したことで名門芦名家は事実上滅び、代わって佐竹北家を継いだ佐竹義隣が角館所預に任命されます。義隣は義宣の甥で京都の公家大納言高倉永慶の2男だった事から京都を模して小倉山や花場山などの地名を名付け、角館所預2代義明は京都の公家三条西実条の娘を正室として迎えた事から京都風の文化が根付いたとされ、現在角館が「みちのくの小京都」と呼ばれる礎を築いたとされます。以後、歴代角館所預は佐竹北家が任命され明治維新を迎えています。
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久保田藩:角館所預歴代領主
 領主名領主年間石高備考
初代須田盛秀慶長7〜慶長8年  
初代芦名義勝慶長8〜寛永8年1.5万石 
2代芦名盛俊寛永8〜慶安4年1.5万石 
3代芦名千鶴丸慶安4〜承応2年1.5万石 
初代佐竹義隣明暦2〜天和元年0.36万石 
2代佐竹義明天和元〜元禄12年0.36万石 
3代佐竹義命元禄12〜享保12年0.36万石 
4代佐竹義拠享保12〜宝暦6年0.44万石 
5代佐竹義邦宝暦6〜明和6年0.49万石 
6代佐竹義躬明和6〜寛政11年0.51万石 
7代佐竹義文寛政11〜文政8年 万石 
8代佐竹義術文政8〜天保12年 万石 
9代佐竹義許天保12〜嘉永5年 万石 
10代佐竹義倫嘉永5〜万延元年 万石 
11代佐竹義尚万延元〜年 万石 

久保田藩:角館所預城下町:名所・旧跡

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