・赤神神社の縁起によると、日本武尊が死去すると白鳥に姿を変え東国の方角の空に飛び立ち、その目的地の一つだったとされ、景行天皇10年(西暦80年)白鳥は漢の武帝を誘った事から、武帝は赤旗を立て白馬と飛車を乗り継ぎ男鹿半島に至ったと記載しています。その後、景行天皇は勅命により武内宿禰を北陸巡視を命じ、宿禰が男鹿半島に至ると、霊地を思わせるような景観と上記の故事に因み、武帝を赤神(赤神明神)として祭り、天皇の皇女を神官としたと伝えられています。
武帝に従った五匹の鬼は、それぞれ別の色の蝙蝠に姿を変え赤神神社の守護神となり、本山の中腹に設けられた五社堂に祭られているとも云われています。もっともと、五社堂には日吉大社(滋賀県大津市坂本)の末社である山王七社が勧請され、その内2社が廃れたとの説があり、男鹿半島の昔話では五匹の鬼が余りにも悪さをする事から、本山まで石段を一晩で造り上げる事を条件し美女の生贄を差し出す約束をしたところ、現在の五社堂付近で朝を迎えたと伝えられています。
赤神神社はその後、一大霊場として発展し、男鹿半島には数多く神社仏閣が軒を連ねるように建立され、仁寿年間(851〜854年)頃には名僧として知られる慈覚大師円仁も当地で修行を行ったとされます。中世に入ると長く当地を支配した安東氏(後の秋田氏)の庇護となり、江戸時代には久保田藩主佐竹家の崇敬社として秋田十二社に数えられました。 |