補陀寺:秋田県秋田市

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【 概 要 】亀像山補陀寺が何時頃から開かれたのは判りませんが、承和5年(1349)に月泉良印大師(総持寺25哲)が無等良雄(伝:藤原藤房・後醍醐天皇の側近)を伴って秋田郡山内邑奥松原郷に創建したとも、比内郡松原郷に創建したと云われています。開基は俘囚長だった安倍貞任の後裔とされる安東氏とされ菩提寺だったとも云われています。ただし、当時の安東氏の本拠は青森県藤崎町の藤崎城だった事から現在の秋田県秋田市にあたる秋田郡山内邑奥松原郷や秋田県大館市にあたる比内郡松原郷にわざわざ菩提寺を設けていたのは多少無理があるかも知れません。比内郡松原郷(大館市)の矢立廃寺跡(秋田県指定史跡)周辺では藤原藤房の隠遁寺院があったとの伝承から補陀寺の旧地と推察されていましたが、実際には12世紀の寺院跡地で現在では奥州藤原氏との関係性の方が注視されています。泰安元年(1361)に月泉禅師が正法寺(岩手県奥州市水沢区)に移ると無等良雄(伝:藤原藤房)が2世に就任し現在地の境内背後の山中には藤原藤房のものと伝わる墓碑が建立されています。補陀寺が何時頃に秋田の松原郷に境内を構えていたのかも不詳ですが、安東氏(湊安東氏)が秋田に進出すると、資料的にも庇護が明確となり文禄元年(1592)には安東氏から寺領93石5斗1升2合が安堵されて、補陀寺の本堂には開基となったと伝わる「安東下国太郎守季」の位牌が安置、それによると安東盛季が応永21年(1414)に享年96歳で死去した事が記されています。ただし、安東盛季は応永30年(1423)、室町幕府5代将軍足利義量に馬、輸入銭、海虎皮、昆布を献上した安藤陸奥守を盛季に比定する説もあります。補陀寺11世天室宗龍禅師は安東実季の2男や叔父とも云われる人物で、湊安東氏の菩提寺である湊福寺を再興しています。慶長7年(1602)に秋田(安東)実季が宍戸藩(茨城県笠間市)に移封になると庇護者を失い衰微し、天和8年(1622)の火災により多くの堂宇が焼失します。正保2年(1645)に13世月堂運渚禅師の尽力により再興、18世紀後半には山門(楼門)、本堂が再建され秋田市指定文化財に指定されています。

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