川原毛地獄 |
川原毛地獄は青森県の恐山、富山県の立山と共に所謂「日本三大霊地」の1つに数えられています。霊地とは霊験のあらたかな聖地とされますが、三霊地共に火山活動により荒涼とした景観が創り出され、その畏怖の念から人々から信仰の対象となり修験の場にもなりました。そういう意味では川原毛地獄も太古から自然崇拝の対象になっていたかもしれませんが、形ある宗教的には大同2年に月窓和尚が前湯寺を開いたのが始まりとされます。その後、天長6年に慈覚大師円仁がこの地を訪れ法羅蛇地蔵と自ら彫り込んだ面を奉納したと伝えられています。円仁が山寺立石寺を開山したのが貞観2年、その後、下北半島に行って恐山菩提寺を開山したが貞観4年、全て伝承の為、年代は解りませんが川原毛地獄は山寺立石寺と恐山菩提寺の中間でもあり年代的にはどうでしょうか?その後、川原毛地獄の信仰も廃れ、明徳4年には川下である三途川に遷され、さらに小野寺家の庇護により、稲庭に遷され菩提寺である広沢寺になっています。
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赤田の大仏 |
赤田の大仏は奈良県桜井市の長谷寺、神奈川県鎌倉市の長谷寺共に「日本三大長谷観音」あるいは「日本三大長谷寺」とも呼ばれています。ただし日本三大を称する寺院は福岡県鞍手町、 長野市篠ノ井塩崎、茨城県古河市の長谷寺がそれぞれ主張しており、どの寺院が本当の日本三大かは分かりません。由利本荘市(旧大内町地区)の長谷寺は亀田藩の高僧:是山泰覚が安永4年(1775)に開いたのが始まりとされ当初は滝沢山不動庵と称していました。天明4年に奈良長谷寺の本尊と同木で彫刻した小仏を時の亀田藩主が奉納、それを胎蔵佛として、巨大な長谷十一面観音像の造立が計画され2年後に完成しました。長谷十一面観音像は明治21年の火災で焼失しましたが、その後再建され現在は由利本荘市指定文化財に指定されています。
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院内銀山 |
院内銀山は関ヶ原の戦いの落武者とされる村山宗兵衛が慶長11年(1606)に発見したが始まりとされます。当時は佐渡金山に次ぐ鉱山として名が知られ、銀山としても石見銀山、生野銀山に匹敵し日本三大銀山に数えられています。久保田藩では重要な財源として藩直営で運営され最盛期には4千戸、1万5千人が住んでいたとされ、遊女屋や銭湯、酒醸造も行われ藩庁が置かれた久保田城下にも引けを取らなかったそうです。江戸時代中期以降は産出も振るわず民間になりましたが、江戸後期には新たな鉱脈が見つかり再び藩請負となり活況しました。明治時代に入ると近代化し量産を図りましたが昭和29年に全山全休となりました。
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