久保田藩

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秋田県の城下町
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久保田藩概要
久保田藩概要: 慶長7年(1602)、関が原の戦いで東西中立とされた佐竹義宣が常陸54万5千石が秋田20万6千石で移封され久保田藩(秋田藩)を立藩、以後、明治維新、まで佐竹家が歴代藩主を務めています。佐竹家は平安時代以降、源氏の正当な血統を受け継ぐ名族で大名家として明治維新まで乗り切った殆ど唯一の存在とされます。豊臣政権下では豊臣方の有力大名として54万5千石を擁し、一門の与力大名を加えると80万石以上の大大名でした。関ヶ原の戦いでは徳川家康の命に従わなかったものの、東軍側とは一戦もせず逆に上田城(長野県上田市)攻略に苦戦した徳川秀忠に援軍を送っています。佐竹家の処遇には徳川側方でも苦慮したとされ当初は東軍側として加増の案もあったそうですが、江戸に隣接する常陸国に大藩を置く事は現実性にかき出羽移転に大きく傾きました。しかし、西軍の総大将であった毛利輝元や関が原の原因となった上杉景勝と同様に石高が4分1に減らされる事には佐竹側も不服が大きく一部の家臣や与力大名が徹底抗戦の構えを見せ為、水戸城(茨城県水戸市)の備えは秋田移封が決定的になるまでは最後まで解けなかったとされます。秋田の地は石高こそ大きく損なわれたものの領土面積には広く、その支配を確立するのは大変な困難を極めました。旧領主の家臣で土着した勢力が農民達を巻き込み大きな一揆を起こし、佐竹義重が守る六郷城なども襲撃されています。その為なのか慶長20年(1615)に一国一城令が発令後も本城である久保田城の他、支城として横手城大館城が認められています。このように一大名に3城体制が認められるのは異例中の異例で久保田藩の他は鳥取藩池田家鳥取城(鳥取県鳥取市)米子城(鳥取県米子市)倉吉城(鳥取県倉吉市 ※後に陣屋扱い)を擁したのみです。理由は不詳ですが佐竹家が西軍の主戦犯と同様の厳しすぎた処分に考慮されたとも、大阪の陣での論功行賞(徳川家が発布した感謝状12枚の内5枚が佐竹家臣に送られた。)とも云われています。領内のその他の要衝(横手城大館城の他、院内湯沢角館檜山十二所)には所預と称する陣屋構の館を設けて佐竹一門や有力家臣を配し周辺の軍事、行政の中心である小城下町を形成しました。又、在郷武士の居住区として角間川と刈和野を開発し家老である梅津氏、渋江氏に治めさせました。初代藩主義宣には子供がいなかった為、隣接亀田藩主で義宣の甥に当たる岩城吉隆(後の佐竹義隆)を2代藩主と定めるとようやく後継者問題も解決し藩政の基礎が固まりました。
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久保田藩歴代藩主
 藩主名藩主年間石高備考
初代佐竹義宣1602〜1633年20.6万石 
2代佐竹義隆1633〜1671年20.6万石 
3代佐竹義処1672〜1703年20.6万石 
4代佐竹義格1703〜1715年20.6万石 
5代佐竹義峯1715〜1749年20.6万石 
6代佐竹義真1749〜1753年20.6万石 
7代佐竹義明1753〜1758年20.6万石 
8代佐竹義敦1758〜1785年20.6万石 
9代佐竹義和1785〜1815年20.6万石 
10代佐竹義厚1815〜1846年20.6万石 
11代佐竹義睦1846〜1857年20.6万石 
12代佐竹義堯1857〜1869年20.6万石 

久保田藩城下町:名所・旧跡

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