久保田藩:横手(城)所預

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久保田藩:横手(城)所預概要
久保田藩:横手(城)所預概要: 横手城は戦国時代、当地域を支配した小野寺氏の本拠で、仙北郡周辺を抑える地の利がありました。佐竹家が秋田に入封時には本城を久保田にするか横手にするか迷ったとも云われ横手城の重要性が伺えます。慶長7年(1602)、初代久保田藩主佐竹義宣の叔父にあたる伊達盛重が横手城代となり、翌年には藩の家老人事に異を唱えた川井伊勢が義宣の不快を買い横手で惨殺されています。盛重は元和元年に逝去しますが、慶長8年には既に須田盛秀が角館から横手に配されている為、横手の支配体制は不明の点がありますが概ね盛秀の体制に移行したと思われます(又、向家を搦手城主として配し、以後、副城主格となっています。)。慶長20年(1615)、一国一城令が発令後、久保田藩でも各支城が取り壊され 元和6年(1620)には久保田城、横手城、大館城の3城体制となりました。国持ち大名の中でも支城が認められるの大変な珍しい事で、中でも3城体制は特例中の特例とされました。須田3代盛品は藩直臣の茂木衆を須田家の与力にしようとすると、茂木衆から反発を買い寛文11年(1671)には二十二箇条口上書が久保田藩庁に提出されるという事件が起こりました。これを苦慮した藩は盛品を病気として事実上の更迭を行い戸村義連を横手城代に任命しています。戸村家は佐竹義倭(佐竹宗家14代義人の3男)を祖とする佐竹一門で、特に戸村義国は大坂の陣での功績を挙げ2代藩主佐竹義隆の代には家老として大きな影響力を持ちました。又、義国の次男隆経を檜山所預の多賀谷家の養子とし隆経が早世すると3男の隆家を嗣にし、嫡男である義宗の子供義連を戸村家の当主とさせ、その義連が横手城主となりました。以後、戸村家が横手城代を歴任しています。
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久保田藩:横手(城)所預歴代城代
 城代名城代年間石高備考
初代伊達盛重1602〜1603年 万石 
初代須田盛秀1603〜1625年 万石 
2代須田盛久1625〜1667年 万石 
3代須田盛品1667〜1672年 万石 
初代戸村義連1672〜1700年0.6万石 
2代戸村義輔1700〜1719年 万石 
3代戸村義見1719〜1744年 万石 
4代戸村義孚1744〜1759年 万石 
5代戸村義敬1759〜1801年 万石 
6代戸村義通1801〜1828年 万石 
7代戸村義效1828〜1863年 万石 
8代戸村義得1863〜1871年 万石 

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