仁賀保領

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仁賀保領概要
仁賀保領概要: 戦国時代に当地方を支配していた仁賀保氏は関ヶ原の戦いで東軍に従い、西軍の小野寺氏を攻めた為、常陸武田5千石の領主として加増転封しました。当時の仁賀保氏は3千7百石程度しか認められていませんでしたが実際の石高は1万2千石程度だった為、事実上の減封となりました。これは出羽統一を目論む最上家が秋田氏や仁賀保氏を陥れる為、嘘言を徳川家に申告したとも云われています。代わって由利郡一帯を支配領域としたのが最上家で山形藩(最上藩)57万石に組み込まれ、楯岡満茂(4万5千石)が配されました。元和8年(1622)、最上家が御家騒動により改易になると満茂も連座、代わって本多正純が5万5千石で入封します。しかし、正純は翌年改易となり仁賀保氏が1万石で旧領に復権、最上家が没落し大坂の陣の従軍や伏見御番、大坂御番などの要職を歴任した事から嫌疑が晴れたのかもしれません。寛永元年(1624)、仁賀保挙誠が死去すると長男良俊に7千石、2男誠政に2千石、3男誠次に1千石を分地した為、大名格から外れ、さらに寛永8年良俊が死去すると跡継ぎが無く断絶してしまいます。2男家と3男家はそれぞれ江戸詰めの御家人として仁賀保性を引継ぎ、領内には平沢陣屋を設けて支配しました。
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仁賀保2千石家
 領主名領主年間石高備考
初代仁賀保誠政寛永元〜承応2年0.2万石 
2代仁賀保誠尚承応2〜寛文10年0.2万石 
3代仁賀保誠信寛文10〜宝永7年0.2万石 
4代仁賀保誠依宝永7〜享保10年0.2万石 
5代仁賀保政春享保10〜享保14年0.2万石 
6代仁賀保誠胤享保14〜享保19年0.2万石 
7代仁賀保誠陳享保19〜安永3年0.2万石 
8代仁賀保誠あつ安永3〜文政4年0.2万石 
9代仁賀保誠昭文政4〜天保14年0.2万石 
10代仁賀保誠明天保14〜安政7年0.2万石 
11代仁賀保誠成安政7〜年0.2万石 

仁賀保千石家
 領主名領主年間石高備考
初代仁賀保誠次寛永元〜延宝5年0.1万石 
2代仁賀保誠方延宝5〜宝永5年0.1万石 
3代仁賀保誠庸宝永5〜享保12年0.1万石 
4代仁賀保誠之享保12〜安永6年0.1万石 
5代仁賀保誠善安永6〜享和2年0.1万石 
6代仁賀保誠形享和2〜文化元年0.1万石 
7代仁賀保誠教文化元〜嘉永6年0.1万石 
8代仁賀保誠意嘉永6〜明治2年0.1万石 
9代仁賀保誠中明治2〜年0.1万石 

仁賀保領城下町:名所・旧跡

政庁
仁賀保陣屋(仁賀保公園)
仁賀保陣屋
領主崇敬社
八幡神社
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