矢島藩

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矢島藩概要
矢島藩概要: 寛永17年(1640)、讃岐藩17万石の生駒高俊は御家騒動により改易となり、堪忍料として矢島領1万石が与えられました。事実上の軟禁状態で万治2年(1658)2代高清が父高俊の遺言により弟である俊明に2千石を分知したため8千石となり江戸詰めの交代寄合となりました。大名に準じた格式(表御礼衆)を持っていたものの矢島領内の管理は家臣に任せる事になり領内では度々一揆が起こりました。又、讃岐藩から従った家臣と中世以来の土豪(根井氏)一族による権力争いも表面化して複雑な領内運営が行われました。特に山本一家が行政を束ねるようになると、農民から3万5千石と同様の年貢米を要求した事から騒動に発展し延宝5年(1677)には江戸表の生駒高清に直訴する事件が起こりました。高清はすぐさま事を収束させましたが厳しい年貢は続き農民の代表である佐藤仁左衛門が再び直訴し、その回答である朱印状が奪われ、仁左衛門一家が処刑されるといった事件も起きています。又、藩境でも隣藩と度々騒動になっており、特に鳥海山山頂は鳥海山修験の権力争いも加わり幕府の裁定を仰ぐ事になり親藩でる庄内藩有利の裁定が下されています。安永9年(1780)、8代領主生駒親睦は参勤交代が認められ、以後、領内にも監視が行き届くようなりました。戊辰戦争の際には大藩である久保田藩に従い新政府側に付いた為、庄内藩の侵攻を受け領内に多くの被害を受けています。八森陣屋も自ら火を掛け撤退しています。会津藩が降伏すると東北北陸諸藩で構成される奥羽越列藩同盟が瓦解、新政府側の勝利が決定的となり、その功により生駒家は1万5千石(後に1万6千石)が認められ大名に復帰し改めて矢島藩を立藩しています。
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矢島藩歴代藩主
 藩主名藩主年間石高備考
初代生駒高俊1640〜1658年1万石 
2代生駒高清1659〜1694年0.8万石 
3代生駒親興1694〜1702年0.8万石 
4代生駒正親1702〜1706年0.8万石 
5代生駒親猶1706〜1753年0.8万石 
6代生駒親賢1753〜1771年0.8万石 
7代生駒親信1771〜1782年0.8万石 
8代生駒親睦1782〜1817年0.8万石 
9代生駒親章1817〜1830年0.8万石 
10代生駒親孝1830〜1839年0.8万石 
11代生駒親愛1839〜1855年0.8万石 
12代生駒親道1839〜1855年0.8万石 
13代生駒親敬1855〜1868年1.6万石 

矢島藩城下町:名所・旧跡

藩主居館
八森城(八森陣屋)
八森城
藩主菩提寺
龍源寺
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藩主崇敬社
木境大物忌神社
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