久保田藩:大館(城)所預

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久保田藩:大館(城)所預概要
久保田藩:大館(城)所預概要: 関ヶ原の戦いで中立とされた佐竹義宣は常陸54万石から久保田21万石に減封となりましたが、以前として領土の面積が広大で各地に一族や有力家臣が配置されました。当初、北方3郡の抑えとして檜山安東氏の本拠である檜山城に佐竹家の一族である小場義成が配され、大館城には家臣である赤坂朝光が城代の任に当たりましが、大館は戦国時代に浅利氏の本拠に近く、浅利の旧臣達が農民達と結束し一揆を繰り返し為、遂に義成自ら一揆の制圧に乗り出しました。大館は隣接する弘前藩に通じる羽州街道と南部藩である鹿角地域に通じる十二所街道との結束点でもあり慶長13年(1608)に義宣の命で義成が正式に大館城の城主に任命されました。小場家は常陸時代から佐竹家に従い義成は義宣の従兄弟の子供に当たる為、信任も篤く、佐竹北家に次ぐ格式を持っていました。当初は常陸太田城(茨木県常陸太田市)から西方に当たる小場を領していた事から「御西様」(後に小田城主)と呼ばれ、万治年間(1658〜1660)以降、義房の代で佐竹性が認められ「佐竹西家」を呼ばれるようになりました。慶長20年(1615)、一国一城令が発令後も久保田藩では横手城と大館城が支城として認められ、江戸時代を通して佐竹西家(小場家)が城主として当地域を支配しました。
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久保田藩:大館(城)所預歴代城代
 城代名城代年間石高備考
初代小場義成慶長15〜寛永11年0.5万石 
2代小場義易寛永11〜万治元年0.5万石 
3代小場義房万治元〜貞享元年1.3万石 
4代小場義武貞享元〜元禄9年1.3万石 
5代小場義方元禄9〜宝永7年0.9万石 
6代小場義村宝永7〜明和5年0.6万石 
7代小場義休明和5〜寛政2年0.6万石 
8代小場義種寛政2〜文化13年0.75万石 
9代小場義幹文化13〜嘉永5年0.78万石 
10代小場義茂嘉永5〜明治元年0.78万石 
11代小場義遵明治元〜年0.78万石 

久保田藩:大館(城)所預城下町:名所・旧跡

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