川原毛地獄(湯沢市)概要: 川原毛地獄は案内板によると「川原毛地獄は古くから羽州の通融嶮と呼ばれ、南部の恐山、越中の立山と共に日本三大霊地の1つであり、王朝時代から多くの修験者や参拝人が訪れ、女人禁制の山であった。大同2(西暦807)年、月窓和尚が霊通山前湯寺を建立、天長6(829)年慈覚大師が訪れ、法羅蛇地蔵と自作の面を奉納している。明徳4(1393)年、前湯寺は梅檀上人により三途川に移された。ここには血の池地獄や針山地獄など136の地獄があり、極楽もある。この先では熱湯が噴出して湯の川となり、川原毛大湯滝や川原毛温泉跡もある。硫黄の採掘は、元和9(1623)年から昭和41年まで344年間も及んでいる。 湯沢市 」とあります。
川原毛地獄は大同2年(807)に月窓和尚に開かれた霊山で、信仰施設として霊通山前湯寺が開山されたと伝えられています。月窓和尚がどの様な人物だったのかは不詳ですが、現在の川原毛地獄の景観でも判るように、荒涼とした空間は非日常的な霊地として、古代から周辺の住民達にとって素朴な自然崇拝信仰が行われていたのかも知れません。その後、天長6年(829)に慈覚大師円仁が来訪し法羅蛇地蔵と自作の面を奉納したとされます。慈覚大師円仁は奈良時代の高僧で天台宗第3代座主、ようするに天台宗の大本山である比叡山延暦寺(滋賀県大津市坂本)の首座という格式の高い人物です。その円仁が35歳の時、天長6年(829)から天長7年(830)の2年間東北地方を巡錫したという記録が残されています。東北地方には円仁縁の寺院が331寺余あるとされますが、実際、年号と合致するものは少なく川原毛地獄の前湯寺もその1つで興味深い所です。古代から中世にかけての密教(天台宗・真言宗)は世俗世界から隔絶された山深い霊地を修行の場として、修験道として発展しますが、川原毛地獄はその絶好の修験の場だったのかも知れません。
室町時代の明徳4年(1393)理由は判りませんが梅檀上人により現在の三途川沿いにある十王堂付近に移されています。梅檀上人がどの様な人物かは判りませんが、これにより曹洞宗に改宗され、わざわざ川原毛地獄のような山深い奥地で信仰する必要性が失われたのかも知れません。その後、稲庭城の城主小野寺家から帰依されるようになり、長禄3年(1459)、居城である稲庭城の城下に移され寺号を「嶺通山広沢寺」に改称し小野寺家歴代の菩提寺となっています。江戸時代に入ると川原毛地獄は信仰の場というよりは久保田藩(藩庁:久保田城)の硫黄の採掘場として整備されました。又、江戸時代の紀行家で民俗学の祖とも言われる菅江真澄も川原毛地獄を訪れ、詳細な挿絵と共に道の左右ではつるはしで硫黄の採掘が行われ、採掘跡の大釜や、山全体が地鳴りのような音を上げ、視界が悪くなる程、白煙が上がって恐ろしい場所だった事が記録されています。
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