秋田城概要: 秋田城は天平5年(733)に造営された対蝦夷の拠点になった古代城柵です。当時の日本海側では秋田城が朝廷の勢力圏の北限にあたり、最重要拠点として考えられていたようで、天平9年(737)には陸奥国の国府が置かれた多賀城から秋田城を結ぶ官道が整備されています。当初は「出羽柵」と呼ばれていましたが、天平宝字4年(760)の記録では阿支太城(秋田城)と記載されるようになり、宝亀11年(780)には安倍家麻呂が出羽国鎮狄将軍に就任しています。鎮狄将軍とは奈良時代に日本海側を北進する派遣軍を率いる将軍の役職で、中華思想の「四夷」を当て嵌めると、日本海側の蝦夷を「北狄」に位置付けた事が窺えます。しかし、その後は秋田城に赴任する最高位は秋田城介と呼ばれ、鎮狄将軍の役職は消滅したと思われます。
奈良時代には秋田城に出羽国の「国府」が置かれ、遠く「渤海」まで交流があり、当時の東北の日本海側の政治、文化、軍事の中心として発展し、周囲には国分寺と同格と思われる四天王寺(後の古四王神社、秋田城の守護神だったと思われます。)や清水神(後の空素沼神社、秋田城の鎮守社だったと思われます。)が創建されています。渤海とは日本の平安時代にあたる時期に朝鮮半島北部、満州地方、ロシアの沿海地方にかけてを領土とした国家で、発掘調査では城内に迎賓館と思われる施設や現在知られている中では秋田城だけが唯一水洗厠が設けられていた事が発見されている事から、秋田城で、渤海使節との外交が行われていたと推定されています。記録上は渤海使節が神亀4年(727)、天平11年(739)、天平18年(746)、宝亀2年(771)、宝亀10年(779)、延暦5年(789)、弘仁11年(820)の7回、日本に上陸した事が記載されており、その時どこで対応したのかは不詳ですが、秋田城が大きく関わったと推定されています。
延暦23年(804)になると蝦夷の反抗が大きくなり、秋田城に置かれていた国府が城輪柵(山形県酒田市)に移転し秋田郡に格下げになりました。その後も軍事的な役割は続けていた為、元慶2(878)の乱、天慶2年(939)の乱と2つの大きな蝦夷の攻撃を受け秋田城も大きな被害を受けています。その後、平安時代後期の1050年前後の前九年の役を境にして秋田城は衰退したと考えられています。
秋田城は周囲550m四方を築地塀(基底幅2.1m、高さ3m)で囲まれ、政庁部は東西94m、南北77mあります。秋田城は古代城柵の遺構として大変貴重な事から昭和14年(1939)に国指定史跡に指定され、現在は、秋田城の東門や築地塀の一部が復元されて、高清水公園として秋田市民の憩いの場所になっています。
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