古四王神社(秋田市)概要: 古四王神社の創建は不詳ですが、伝承によると崇神天皇の御代 (第10代天皇・在位:紀元前97年〜紀元前30年)に四道将軍の1人、大彦命が蝦夷遠征の際、北門鎮護のため武甕槌神の分霊を勧請し齶田浦神として祭ったのが始まりとされます。その後、斉明天皇の御代(第35代天皇・645〜645年・第37代天皇・655〜661年)に阿倍比羅夫により阿部氏の祖神である大彦命の分霊を勧請し、現在の古四王神社の祭神である大彦命と武甕槌神(齶田浦神)の2神での信仰が始まったと伝えられています。阿倍比羅夫は7世紀中期の日本の将軍で越後守などの要職を歴任し、日本海側を北上して蝦夷を従えたとされ斉明天皇4年(658)から5年(659)にかけて当地方まで進出し津軽地方や秋田地方などの蝦夷を掃討した事が記録が残されている事から、伝承通りとすれば、この前後に古四王神社が成立したと思われます。
古四王神社には「越王」、「胡四王」、「腰王」、などの呼び名があり秋田県から新潟県北部にかけての日本海側に多く分布し、一般的には「越国の王」を祭った神社が転じ、古四王神社と呼ばれるようになったという説が有力です。祭神である大彦命(大毘古命)は北陸地方に派遣された四道将軍ですが「古事記」では出羽国(秋田県・山形県)までは進出したおらず、越後国(新潟県)から会津地方(福島県会津若松市)に入り建沼河別命と出合った事が記載され、当時の越国というのは、現在の福井県(越前国)、石川県(加賀国・能登国)、富山県(越中国)、新潟県(越後国)にあたり、実際に古四王神社の分布とは異なります。 又、斉明天皇以前の大和朝廷の日本海側の最前線は弥彦神社(新潟県弥彦村)までだったと推定される事から、もし、大彦命(大毘古命)が本当の越王として崇敬され信仰される存在だったとしたら、本来、北陸地方に古四王神社が数多く分布していると思われます(大彦命が祭られている神社は散見されるものの古四王神社はみられない)。この事から、斉明天皇の御代に大和朝廷の支配が新潟県中央部から大きく北上する毎に、政治的な配慮から大彦命を「越国の王」として祭る社を支配地に創建、又は元々祭られていた地元神と並列して祭るように仕向けたとも考えられます。そう考えると秋田市寺内に鎮座する古四王神社は、地元神である齶田浦神が本来の祭神で、大和朝廷の支配下に入ると齶田浦神を武甕槌神に転じて、さらに大彦命が祭られるようになった思われます(その為、実際、大和朝廷の支配の及ばない青森県では目立った古四王神社は無いように思われます)。
天平5年(733)、後に秋田城と呼ばれる出羽柵が高清水の丘に築かれると、創建年は不詳ですが、付属寺として四天王寺(その為、地域も寺内と呼ばれた)と呼ばれる寺院が柵内(城内)に設けられ、古四王神社はその守護神として神仏習合の形態をとったと考えられています。その際、四天王寺の北辰信仰が古四王神社に引き継がれ、各地に点在す多くの古四王神社の社殿は北向きに配し、本地仏として毘沙門天などを祭る例が多いとされます。
平安時代に成立した「日本三代実録卷第十」の貞観7年(865)2月27日の条に 「高泉神」が正六位から従五位下に昇進した事が記載されていますが、この「高泉神」を古四王神社とする説があります。これは、江戸時代の紀行家で民俗学の祖とも言われている菅江真澄が久保田藩(藩庁:久保田城)に滞在中に論じた説です。同じく「日本三代実録」に「城輪神」も併記されていますが、こちらは秋田城から出羽国府が遷されたと推定される城輪柵(山形県酒田市)に隣接する城輪神社の事とされ、当時は古代城柵の鎮守が格式の高い神社(神)として重要視されていた事が窺えます。ただし、秋田城には空素沼神社も鎮座し、こちらを「高泉神」とする説もあります。高泉神も空素沼神社も「水」を連想させる事が理由で、実際、空素沼神社には水神(高おかみの神)が祭られています(ただし、空素沼神社は江戸時代に創建したとの伝承もあります)。
古四王神社は、秋田城の最高責任者である秋田城介の崇敬を受け、 秋田城が荒廃後は、当地を支配した安東氏(後の秋田氏)から崇敬庇護されました。安東氏は津軽地方を治める大豪族でしたが、南部氏の侵攻に破れ、一族の一部が秋田に逃れ湊安東氏として長く当地を支配しました。安東氏は特に、古四王神社と赤神神社、日吉神社(現在の日吉八幡神社)を篤く信仰したとされ正和元年(1312)には安倍(安東)政季が古四王権現(現在の古四神社)を再興し、観応2年(1351)には安倍(安東)寂蔵が寺内村古四王堂(現在の古四王神社)の修築を行い、戦国時代にも社領の安堵が行われています。又、湊安東氏が檜山安東氏と併合し秋田氏に改名し、移封先である三春城(福島県三春町)の城下町に境内を構えた祈願所の真照寺の境内にも古四王堂が設けられ信仰が続けられました。
江戸時代に入ると久保田藩の藩主佐竹氏から社領60石を賜り、領内の主要な神社として秋田領十二社に選定され、崇敬の対象となり篤く庇護されました。古くから神仏習合し、長く古四王大権現と呼ばれてきましたが明治時代初頭に発令された神仏分離令に仏教色が排除され、現在の社号である「古四王神社」に改称し明治9年(1876)に県社、明治15年(1882)には秋田県唯一の國幣小社に列せられました。
現在の社殿は明治19年(1886)の俵屋火事で焼失した後、明治21年(1888)に再建されたものです。古四王神社の境内社である田村神社は延暦21年(802)に坂上田村麻呂が蝦夷征伐のときの戦勝祈願をしたことが創建とされています。
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