久安3年−西行法師 : 「象潟の桜は波に埋れて花の上漕ぐ海士の釣り舟」 慶長17年−沢庵禅師 : 「きさかたのいはさの波は早けれどこころの月のかげもすみつつ」 元禄2年−松尾芭蕉 : 「象潟や雨に西施がねぶの花」 天明4年−菅江真澄 : 「うつしえにうつしとめしは象潟のむかしをいかでみづくきのあと」 寛政元年−小林一茶 : 「象潟や波の上ゆく虫の声」 スポンサーリンク などが上げられますがその他にも正岡子規や平賀源内、斉藤茂吉、吉田松陰など象潟を題材とした多くの作品が残されています。その後文化1年(1804)象潟付近で大地震が起こり、象潟を中心にして約2m地面が隆起します。当時象潟を領域にしていた本荘藩は新田開発を進め、島跡を平坦にし、より多くの田園を確保する計画を立てましたが、蚶満寺の住職が中心となり保存運動を展開し現在のような景勝の地が残されました。象潟の中心部を見ると落ち着いた町並みがあり、なかなか雰囲気がある魅力的な空間があります。象潟は羽州浜街道沿いにある町ですが、北前船の中継港や鳥海山修験の入り口としての役割もあり、かなり賑わっていいたようです。現在の象潟の町並みは、古い町屋が続くという感じではありませんが、海沿いの町らしく低層の瓦屋根の建物が続きます。切り妻妻入りが基本とは思うのですが、平入りの建物も意外と多いです。金浦で見られるような、細かい道が入り乱れるといった、港町特有な感じはあまりなく、ある意味淡々とした感じもします。羽州浜街道いには大きな社寺はありませんが(蚶満寺は例外として)港町ということなのか、海側には古四王神社や金毘羅神社などの社寺があり信仰が厚い町のようです。