金沢柵 |
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金沢柵(横手市)概要: 金沢柵の築城年は不詳ですが一般的には永保3年(1083)〜寛治元年(1087)に当地域で行なわれた後三年合戦で清原家衡、武衡が立て籠もり源義家、清原清衡と激しい攻防戦を繰り広げた金沢柵と推定されています。金沢柵本丸推定地からは後三年合戦と同時期である11世紀後半の中国製白磁器、兵糧倉跡からは後三年合戦で焼失したと思われる数多くの焼米が発見されています。現在残されている遺構は中世以降、所謂金沢城時代のもので、本丸、二の丸(金澤八幡宮境内)、北の丸(相撲場)、西の丸(安本館)、兵糧倉(本丸直下に位置し数多く焼米が発見)、武者走(金澤八幡宮の南西、西の丸を取り囲むように位置している)、空堀(中には5重連の空堀もあります)、堀切(堀切の数は数百箇所とされます)、土塁などの城郭が残され見ごたえは十分ですが、平安時代のものではなく、又、後三年合戦絵詞から当時の金沢柵は周囲が断崖絶壁の天然の要害であった事や合戦の様相などから金沢城では有り得ない表現をしている事から向かいにある陣館遺跡を金沢柵とする説もあります。後三年合戦とは当初は清原家内部での勢力争いでしたが、陸奥守として赴任していた源義家が介入した事で大合戦の様相を見せ激しい攻防戦が繰り広げられました。清原家衡、武衡は沼の柵の攻防で戦勝し、勝利を確定する為にも当時難攻不落の城と呼ばれたこの金沢柵に立て籠もり籠城戦を展開しました。源義家は力攻めでは攻めきれず金沢柵を包囲し記録上では日本初の兵糧攻めにしました。寛治元年(1087)、兵糧が尽きた城兵達は金沢柵に火を放ち逃走、清原家衡、武衡も捕縛され後三年合戦は終結、義家に加担した清原清衡に奥州6郡の統括権が認められ奥州藤原氏の祖となっています。長禄2年(1458)に南部守行(三戸南部家13代)の子供が当地に派遣され地名から金沢右京亮を称し文明2年(1470)まで支配しました。戦国時代に入ると小野寺氏が支配し家臣である金沢権十郎などが城主となっています。小野寺氏は慶長5年(1600)の関が原の戦いで西軍に与した為に改易となり、久保田藩主となった佐竹氏が接収しましたが、一国一城令が発令されると廃城になりました。現在は金沢公園として整備され、周囲には兜杉や兜八幡神社、景正功名塚、厨川といった後三年合戦縁の史跡が点在しています。
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