空素沼神社(秋田城)概要: 特に案内板も無い為、由来等詳細は解りませんでしたがかなり古い歴史を持っているような感じを受けました。古代秋田城に隣接し、鵜ノ木地区の古代沼跡から木製の人形、馬形など出土していることからも空素沼は古代の司祭の場所だった可能性は高いと思います。空素沼(写真右から1枚目)に行った人は感じたと思うのですが、昼間でもかなり息苦しく、ある種の圧迫感、緊張感がある空間がそこにはあります。空素沼神社と空素沼を繋ぐ参道には石碑(写真右から2枚目)があり神聖視されています。祭神:高おかみの神。
空素沼神社の起源については諸説あり、上記のように秋田城の鎮守社的な存在だった可能性があり、平安時代に成立した「日本三代実録」に貞観7年(865)2月27日の項目に「高泉神」が従五位下に列した事が記載されており、その「高泉神」の後継神社を空素沼神社とする説がります。「高泉神」の後継神社については、同じく秋田城の麓に鎮座する古四王神社とする説もありますが、高泉神は名称からも水神が連想され、社号の「空素沼神社」や祭神である「高おかみの神」も同じく水を連想させる事から空素沼神社の方が自然に感じます(江戸時代の紀行家、菅江真澄は古四王神社の説を唱えています)。又、「日本三代実録」には「高泉神」と同列に「城輪神」が記載され、この「城輪神」は秋田城から出羽国府が移ったとされる城輪柵の鎮守社と推定される事からも、「高泉神」が秋田城と関係が深かった事が窺えます。
空素沼神社のもう1つの起源は江戸時代後期に久保田藩(現在の秋田県・藩庁:久保田城)で大干ばつとなり、久保田藩9代藩主佐竹義和が当時、有力寺院だった天徳寺と補陀寺、長谷寺(赤田の大仏)の住職を呼んで雨乞い祈願を行ったところ、見事念願成就し、多くの作物が助かった事に感謝し、空素沼の畔に一宇を設けて竜神を勧請したのが始まりとされます。空素沼は元禄元年(1688)7月23日に突然発生したとの伝説が残されている事から、この伝説が正しければ創建年は江戸時代の方が有力となります。何れにしても江戸時代には雨乞いに霊験があるとして広く知られる存在になっていたようで、万延年間(1860〜1861年)には久保田藩12代藩主佐竹義堯の招きにより勢覚寺の和尚斎藤清淳が雨乞いの祈願が行い、益々信仰が広がったと伝えられています。
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