秋田・安東氏:安倍貞任

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安倍貞任

概要・歴史・観光・見所
秋田氏・安東氏の家系図は数多く存在し多岐に渡りますが祖とするのは大きく安日彦(安日王)と孝元天皇(皇子は大毘古命、その後裔は阿部比羅夫)の2つに分かれ、その後裔として安倍貞任を組み込むものが大半を占めます。安倍の姓については「アぺ」→「アヒ」→「アベ」と転じたのが一番自然と思われますが、前述したように建沼河別命(武渟川別命:父神である大毘古命は阿倍氏の祖神とされます。)に従って安倍の姓を賜った又は阿部比羅夫に従い阿倍の姓を賜ったとの家伝や、伊賀の阿倍志彦の一族が津軽まで逃れたなどの説があります。何れにしても比較的早くから阿部又は安倍に転じていたようです。又、家系図と別に阿部比羅夫の次男である阿倍宿奈麻呂の玄孫の安倍比高が貞観6年(864)に出羽権介、貞観7年(865)に陸奥守、貞観14年(872)以降に陸奥鎮守府将軍に任ぜられた事から比高の家系が土着して土豪化した説もあります。安日彦が流されたのが津軽(外の浜)で突如現れた平安時代後期の安倍氏の本拠は現在の岩手県中央部、そして中世以降活躍した安東氏は津軽地方と考えるとそれぞれ別の一族のような印象を受けます。

秋田氏・安東氏家系図1
 ・ 安日王→安国→安東→致東→長国→安尭→国東→頻良→頼良(頼時)→安倍貞任

秋田氏・安東氏家系図2
 ・ 孝元天皇→大彦命→武渟川別命→瀬立大稲起命→大稲誉命→火麻呂→麻呂→鳥子→目臣→大鳥臣→
 ・ 倉橋麻呂→益麻呂→御主人→廣庭→阿部比羅夫→安麻呂→小嶋→家麻呂→富麻呂→実良→隣良→忠良→
 ・ 頼良→安倍貞任

安倍氏は9世紀頃から勢力を広めたとされ11世紀から11世紀半ばに掛けて陸奥国奥六郡(胆沢郡、江刺郡、和賀郡、紫波郡、稗貫郡、岩手郡)にまで及び俘囚長や陸奥大掾(陸奥権守)を歴任するようになっています。安倍頼時の代には俘囚からの篤い支持もあり次第に半独立国家のように振舞うようになり、朝廷の税や使役を無視した事で永承6年(1051)に当時の陸奥守である藤原登任が安倍領に侵攻し交戦状態に陥り所謂「前9年合戦」が勃発しました。鬼切部の戦いで安倍方が勝利するも源頼義が陸奥守になると膠着状態となり永承7年(1052)に上東門院藤原彰子が大病を患うと平癒祈願が行われ、頼時は大赦、その罪が不問となった為、双方が軍を引き上げました。天喜4年(1056)、頼義が何者かに急襲される事件が発生した為、頼義は安倍氏の画策と断罪し頼時の嫡男貞任の人質を要求しました。これに異を唱えた頼時は再び兵を挙げ再び交戦となると天喜5年(1057)に同族である安倍富忠の裏切りにより手傷を負い鳥海柵で死去しています。

頼時の跡を継いだ安倍貞任はさらに対立を深め黄海の戦いで勝利するなど有利に展開していましたが、康平5年(1062)、出羽国の豪族である清原氏が源頼義に与した事で形成が逆転し、小松柵(岩手県奥州市)・衣川柵(岩手県一関市)・鳥海柵(岩手県胆沢郡金ヶ崎町)次々に拠点を突破され最後の砦となった厨川柵(岩手県盛岡市)の戦いでも敗れ敵方に捉えられました。討ち取られた首は丸太に釘で打ち付けられたまま、朝廷に差し出されたと伝えられています。一般的には奥州安倍氏一族はこれにより滅亡したとされます。

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