秋田氏・安東氏:安倍高星

  秋田県:歴史・観光・見所(ホーム)秋田氏・安東氏>秋田氏・安東氏と安倍高星

安倍高星

概要・歴史・観光・見所
康平5年(1062)、厨川柵(岩手県盛岡市)の戦いで敗れた安倍貞任が斬殺された事を受け、奥州安倍氏は滅亡した事に一般的にはなっています。しかし、秋田・安東氏の家伝によると貞任の2男、高星丸が乳母と少数の家臣と共に厨川柵から逃れ、津軽に落ち延びると、安東氏としての祖となったと伝えられ、家系図もそのように製作されています。家系図の改竄などには、この手の話が多くかなり疑問が残る伝承ですが、高星関係の伝説は秋田・安東氏の家伝としてだけでなく、地域に根ざしたものもあり興味が引かれるところでもあります。伝承によると、何やら怪しげな物音がする為に追手と思い高星丸はそこを目掛けて斬り付けると、白鳥の群れが飛び立ち、斬り付けられ死んだ白鳥を仲間の白鳥が持ち去り居城である淵崎城を飛び越し北の空に消えました。それを見た高星丸は無闇に殺生をした自分を恥じ、家臣に命じて白鳥を殺すのを禁じ城も白鳥城(後の藤崎城)に改名、白鳥を保護した事で領内には数多くの白鳥が飛来するようになったと伝えられています。

江戸時代の紀行家で、民俗学の祖とも云える菅江真澄も安倍高星の伝説について記載しており、寛政9年(1797)に編纂した「津軽のをち」では藤崎村の村長である川越茂助から、貞任の長男千代寿丸の弟である高星丸が僅か2歳で乳母の懐に抱えながら藤崎城に辿り着き、その後裔は東北一帯に領地を広げたとの伝説を聞き、高星殿やその子供である月星殿と呼ばれる地名があるとも云われています。ただし、藤崎城が高星丸の居城だった事は古老しか知らず、江戸時代後期には既にその伝説すら伝説になりつつあった事が記載されています。

高星丸についての伝承には多少の差違があり、藤崎に逃れた年齢は上記の伝承では2歳、藤崎系図では3歳、安藤系図では4歳とし居城である藤崎城については、高星丸が逃れてきた時点で既に存在していた説と、青年となり貞義と名を改めた後の永保2年(1082)に築いた説と、子供である尭恒によって寛治6年(1092)に築かれたという説があります。安東姓に改称したのも高星丸説や、貞秀説などがあります。

[ 安日彦(安日王) ]・[ 安倍貞任 ]・[ 安倍高星丸 ]・[ 記録的・初見 ]・[ 安藤氏の乱(津軽大乱) ]・[ 十三湖・福島城 ]・[ 十三湊 ]・[ 南北朝動乱 ]・[ 津軽撤退 ]・[ 上国家(湊家) ]・[ 下国家(檜山家) ]・[ 檜山城 ]・[ 新羅之記録の疑問 ]

スポンサーサイト
 ※ 相談や質問は大変失礼ですが、メールのみとさせていただきます。 回答によって不都合や不利益をこうむっても当サイトは一切責任を負いません。又、回答を直接的(当サイトの名前を使って)に交渉や請求の手段とすることはご遠慮くださるようお願い申し上げます。 予告なしに追加、書き替えを行いますのでご了承ください。尚、「秋田・安東氏」は「郷土資料辞典:青森県・秋田県・福島県・茨城県」、「日本の城下町」、「観光パンフレット」、「観光地案内板」、「関係HP」等を参考にさせていただいています。