秋田・安東氏:津軽撤退

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津軽撤退

概要・歴史・観光・見所
南朝暦元中9年、北朝暦明徳3年(1392)、唐川城南北朝の動乱が北朝の圧倒的な有利の中、南北朝合一が成ると津軽地方で北朝方の有力豪族として活躍した秋田・安東氏も最盛期を向かえ、応永2年(1395)に康季と弟である庶季が北海の夷賊を平定し更なる領地を獲得しています(一説には恩賞として現在の男鹿半島から土崎湊一帯が与えられたとの説もあります)。ここでいう康季とは盛季の事で、庶季とは鹿季の事とされ、別説では鹿季は北海の夷賊ではなく、秋田周辺の夷賊を平定しそのまま秋田を拠点として上国家(湊家)を立ち上げた人物とされます。さらに、動乱が鎮まった事で京都などの消費力が高まり、本拠である十三湊も「三津七湊」に数えられる程の全国有数の湊として発展しました。応永2年(1395)には康季(盛季)と弟である庶季(鹿季)が北海の夷賊を平定する大功を挙げ、再び将軍(日之本将軍)の称号を得て、さらに応永30年(1423)に足利義量の室町幕府5代将軍の就任を祝し馬20頭、鷲羽50羽分、鵞眼20000疋、海虎皮30枚、昆布500把を献上、それに対して将軍家からは太刀一腰、鎧5領、香合、盆、金襴を賜り陸奥守の称号を得、永享7年(1435)には後花園天皇の勅願により羽賀寺(福井県小浜市)の再建の大役を賜っています。一方、南朝方に与していた根城南部氏も南北朝合一後に将軍足利家の後ろ盾のあった三戸南部氏へ惣領が移った事で衰微し、後顧の憂いの無い三戸南部氏が一族を率いて西進する事になり応永16年(1409)には南部守行が津軽国司に任ぜられ形式上は津軽地方を治める立場となっています。既に、平賀郡を中心に勢力があった曾我氏は元中年間(1380〜1392年)に根城南部氏の侵攻により滅亡したと推定され、田舎郡を中心に勢力があった工藤氏は大光寺城合戦の功で本領である田舎郡の他、鼻和郡目谷郷、外ヶ浜野尻郷が与えられ大きく版図を広げましたが、男子がおらず結果的に娘である加伊寿御前の嫁ぎ先である根城南部氏の当主である南部信政に吸収されました。これにより、15世紀初頭には津軽の西半分は秋田・安東氏、東半分は三戸南部氏、浪岡周辺は北畠顕家の後裔とされる浪岡城の城主浪岡氏が支配する事になります。応永21年(1414)、盛季が死去(秋田家系図では応永21年に享年52歳となっていますが菩提寺である補陀寺の位牌や大檀那の羽賀寺の過去帳では享年84歳、さらに嘉吉3年:1443年に蝦夷地に渡ったとの文献もあり不詳)、さらに、後ろ盾と思われる足利将軍が相次いで死去した事で政治的な地位が衰微したと思われます。取り扱いは注意ですが「新羅之記録」によると嘉吉2年(1442)に十三湊の拠点が陥落し詰め城の唐川城に撤退、しかし、嘉吉3年(1443)に唐川城も落城した為に後城である小泊の柴崎城に逃れ、戦わずして小泊港から蝦夷地に向かったとされます。嘉吉元年(1441)に康季死去(理由は分かりませんが、南部勢との攻防戦で命を失ったと推察されます。別説では嘉吉3年(1443)に津軽十三湊を脱出し蝦夷地にて文安2年(1445)に病死又は享徳2年(1453)に引根城にて病死したとの記述があります。

秋田氏・安東氏家系図
 ・ 愛秀(十三湊進出)→堯勢→貞季→盛季(下国家初代)→康季(羽賀寺再建)→義季(宗家直系断絶)→政季

家系図や文献等がバラバラで大変分かり辛いです。柴崎城信頼の高い資料では永享4年(1432)、逆に低い資料では嘉吉3年(1443)に南部家の侵攻により秋田・安東氏は敗れ蝦夷地に逃れたとされ(両方の説を合わせて、安東家は2度蝦夷地に撤退したとの説を唱える人もいます)、十三湊の遺跡の発掘調査でも大きな火災の跡や、15世紀半ば前後から急速に衰退している事が証明されています。安藤氏系図がある程度信用があると過程すると、やはり、嘉吉元年(1441)に康季が死去し、当時、19歳で家督を継いだ義季が一族をまとめ切れず一気に弱体化を招き再起が図れなかったと思われます。その義季は蝦夷地から復権を図り文安2年(1445)に再度津軽半島に上陸し狼倉舘に立て籠もりましたが享徳2年(1453)に南部家との戦いで敗北し享年31歳で自刃しています。これにより秋田・安東家の直結の血筋は途絶え、又従兄弟でとされる政季が宗家を継いでいます。一方、信頼度が高い「萬済准后日記」では永享4年(1432)、比較的多くの書籍が参考にしている「湊文書」や、「新羅之記録」では嘉吉2年(1442)に十三湊の拠点が陥落し嘉吉3年(1443)に盛季、康季、義季が蝦夷地に渡ったと記載されています。

私的考察 ⇒ [ 何故、安藤氏は2度津軽を離れたのか? ]

当時の家系図比較
 盛季康季義季政季
秋田家系図下国安東太郎
母ハ北畠顕家ノ女
応永21年2月卒
奥州十三湊日下将軍
下国安東太郎
法名鳳聚院高山賢機
下国安東太郎
享徳2年卒
法名秀山玄泰
下国安東太郎
潮潟四郎ノ子
長享2年8月10日卒
法名長香寺大岩宗広
安東氏系図下国安東太郎
母ハ北畠顕家ノ女
応永21年2月2日没
52歳
下国安東太郎
後花園天皇の勅願に
より羽賀寺再建
嘉吉元年2月12日没
下国安東太郎
享徳2年10月9日没
31歳
下国安東太郎
康正2年湊堯季の援助
より蝦夷より檜山に移る
長享2年8月10日没
湊氏系図下国安東太郎
文安元年没
妻北畠顕元女
享徳2年3月
引根城にて病死
享徳3年1月
狼倉城にて自刃
31歳
潮潟四郎2男

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