秋田・安東氏:「新羅之記録」の疑問

  秋田県:歴史・観光・見所(ホーム)秋田氏・安東氏「新羅之記録」の疑問>何故、安藤氏は2度津軽を離れたのか?

概要・歴史・観光・見所
@ 何故、安藤氏は2度津軽を離れたのか?
正確にいうと「新羅之記録」が2度離れたとは書いていません。「満済准后日記」では永享4年(1432)、「新羅之記録」では嘉吉3年(1443)に安藤氏は南部家に敗れ没落し蝦夷地に渡ったと書いているという事です。私のように素人ですと、どちらかが間違っていると思うのですが、どうも専門家や、研究者達はどちらも本当の事のように捕らえています。そこで、永享4年(1432)に安藤氏は蝦夷地に逃れ、幕府の仲裁の元に和睦をして、一端津軽に戻った後に嘉吉3年(1443)に再び南部家から攻められ蝦夷地に逃れたと説明しています。「満済准后日記」は室町時代前期の醍醐寺座主であった満済の日記で、満済は幕府の中枢にも名を連ね、当時の政治事情がかなり詳細に、さらに時間差無しに記されている事から、永享4年(1432)に安藤氏は蝦夷地に逃れた事はまず間違いの無い事実です。一方、「新羅之記録」は松前藩初代藩主・松前慶広の6男景広が寛永14年(1637)に火災によって焼失した古文書を記憶を頼りにまとめたものを纏め上げ正保3年(1646)に新羅神社(滋賀県大津市)に奉納したものです。素人からすると、どちらが信憑性があるかは一目了然なのに何故、安藤氏が2度南部家に破れ2度蝦夷地に逃れたという結論に至ったのか、それには大きく2つの理由があります。1つは安藤氏が蝦夷地に逃れた後に幕府が何度も南部家に対して調停勧告を行い、それに対して南部家は応じなかったので、再度勧告をしたことです。実際、南部家が勧告に応じたとの記録は残っていない為、本来は不詳ですが、安藤氏が2度津軽を離れたという説を主張する専門家はこれに応じたと解釈しています。その1つの根拠が永享7年(1435)に羽賀寺(福井県小浜市)が火災で焼失した際、永享8年(1436)に後花園天皇の勅命を安藤康季が受け堂宇の再建を請け負った事です。その為、和解が成立し十三湊を復活させ、その財力を持って再建に望んだと主張しています。ただし、完成したのは文安4年(1447)で安藤氏が「新羅之記録」でいう嘉吉3年(1443)に蝦夷地に落ちたのであれば到底完成には至らず、それであれば永享4年(1432)に蝦夷地に逃れた後、再興を果たし、継続的に羽賀寺の再建に望んだ方が説得力があります。

「新羅之記録」の疑問
@ 何故、安藤氏は2度津軽を離れたのか?
A 何故、安藤氏は1度目に南部家と和睦出来たのか?
B 何故、和睦の条件が潮潟四郎重季と南部義政の娘との婚儀なのか?
C 何故、安藤政季(師季)は殺されなかったのか?
D 何故、安藤政季は宇曽利(下北半島)に配されたのか?
E 何故、安藤政季は下国家安藤家宗家に就任出来たのか?
F 何故、安藤政季は僅か2年で道南部の体制を築けたのか?
G 何故、安藤政季は格下のはずの上国家の要請を聞き入れたのか?
H 何故、安藤政季は藤崎城に侵攻したのか?
I 何故、安東忠季は下国恒季を討ち取ったのか?
J 何故、安東尋季は蠣崎光広に「松前」守護職を認めたのか?
K 何故、安東舜季は蠣崎家とアイヌとの講和に立ち会ったのか?
L 愚痴と総括

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