秋田・安東氏:「新羅之記録」の疑問

  秋田県:歴史・観光・見所(ホーム)秋田氏・安東氏「新羅之記録」の疑問>何故、安東尋季は蠣崎光広に「松前」守護職を認めたのか?

概要・歴史・観光・見所
J 何故、安東尋季は蠣崎光広に「松前」守護職を認めたのか?
安東尋季は永正8年(1511)、忠季の死去を受け下国家6代、檜山家2代を就任、一般的には忠季の子供、異説では政季の子供、忠季から見ると叔父にあたり形式的には養子となってから当主を継いだとされます。これは、「新羅之記録」の出てくる一文に「・・・・・政季朝臣ノ嫡孫ノ安東太尋季朝臣書状ヲ披見シ・・・・・」から、政季の孫だから忠季の子供であろうという説が一般的ですが家系図上は尋季は天文3年(1534)に54歳で亡くなっている為、逆算すると文明12年(1480)生まれ、忠季は永正8年(1511)に24歳で亡くなっている為、逆算すると文明19年か長享元年(1487)生まれとなり忠季の実子で無い事から政季の弟説が発生し、一応私もその説の可能性が高いと思っています。又、前にも言いましたが「新羅之記録」の世界観に当てはめると政季と尋季は50歳前後の歳の離れた兄弟となり全く不自然で、逆に祖父、孫という関係だとかなり自然となります。でも、それを支持すると安東忠季とは一体誰なのか解らなくなり、結果的には「新羅之記録」の世界観よりもかなり時代が下がり政季が生まれたとすれば、我慢出来る程度に落ち着きます。

それでは、尋季が「新羅之記録」の中で、どの様に描かれているのか簡略に説明すると永正9年(1512)に蝦夷地でアイヌ人の反乱(ショヤコウジ兄弟の蜂起)が発生し、12館ある内の3館が陥落、翌永正10年(1513)には「松前」守護所がある松前大館(後の松前城)が落城し、当時の守護職相原季胤や村上政儀は討死しました。そこで松前大館に城主が居なくなった為、「上ノ国」守護職である蠣崎光広が松前大館に移り、さらに空位となった「松前」守護職の要請を尋季に行い、2度断ったものの3度目で承諾し蠣崎家が「松前」と「上ノ国」の守護職を担うようになり、代わりに海運での運上金の過半を檜山安東氏に献上する事を約束し蠣崎が安東氏の一門に加わったことが書かれています。一方、「松前累系」には「大館ニ於テ光広ノ兵ト戦ウ。守護人相原三郎季胤、村上河守政儀負テ自害ス」と記載している事から蠣崎光広が相原季胤や村上政儀を討ち滅ぼし、道南部を掌握したとの説があります。書籍では概ね両方の資料を併記し、蠣崎光広の謀略説を支持しているように表現されています。「新羅之記録」の性質上、後者の説が有力ですが、光広が「松前」守護職の要請を安藤尋季に行い追認されたという記載には否定的な意見は無く、当時も下国(檜山)安東氏の権力が蝦夷地に及んでいたと言及しています。私は何度も言いますが「新羅之記録」での秋田・安東氏に関わるところは殆ど創作されていると思っていますので、この件も懐疑的に見ています。

これも、前に言いましたが、秋田での下国(檜山)安東氏には「海」や「海運」といった匂いが全く感じられません。蝦夷地とは距離も離れている事から直接の支配は出来ないにしても、海運の支配は直接出来るはずです。元々、安東氏は蝦夷地の産物を本拠である十三湊を経由して京都で売りさばく事で利益を得たはずで、十三湊が無いのなら、何故、能代湊がその役を演じれないのか全く不思議です。十三湊程にはいかないにしても、そこまで蝦夷地に対して巨大な権力があるならば強制的に能代湊を中継地としていれば全く問題なく、蝦夷地に対しても干渉しやすい環境が整うはずです。運上金の献上についても、そこまで言及するのならば、安東氏側から目付け役人のような家臣が複数人派遣され出先役所のようなところで、船の数や荷物の内容、どの位の金銭が動いたなどのチェック機関が必要で、全てとは言わないものの、双方でなんかしらの痕跡のようなものが本来あるはずです。又、下国(檜山)安東氏に蝦夷地の守護を任命する権限があったとしたら、それこそ各守護や館主が毎年のように付け届けや年始の挨拶などで檜山に訪れもっと多くの交流があり、神社の社宝、寺院の寺宝、旧家の家宝などにも何かしら残っているはずですし、鳥居や狛犬など奉納や、檜山で偶然亡くなった人の墓地など考えれば切が無い程に痕跡や伝承が残っているはずです。素人で勉強不足かも知れませんが私が知る限りでは全く見たり、聞いた事がありません。

これらを踏まえると、全くの推論ですが、蠣崎光広が使者を立て安東尋季に「松前」守護職の要請を行い追認したという可能性は無いと思います。蠣崎光広が相原季胤や村上政儀を討ち滅ぼし、自ら「松前」守護職に就いたという事が事実に近く、「新羅之記録」の世界観では、アイヌの大乱を平定して大功のあった蠣崎光広がその功績から安東尋季から「松前」守護職を認められ安東一門になった。と表現されていると思います。

安東尋季の実績としては、明治中頃に編纂された「能代由緒記(能代に伝わる伝承や由来を纏めたもの)」によると天文2年(1533)に安東尋季の家臣清水氏が自分が采配している領地である姥懐に山王社一宇の造営を勧請したの記載があり、現在能代市の中心部に鎮座する日吉神社の創建に関わっています。その後、清水氏は能代湊の町づくりにも大きく関与している事から尋季の代の後半になりようやく檜山領内でも安定期に入り檜山家の独自の政策が行えるようになってきたと思われます。又、嫡男の舜季に上国家(湊家)の安東定季の娘を正室に迎えるなど、檜山家の安泰を図っています。

「新羅之記録」の疑問
@ 何故、安藤氏は2度津軽を離れたのか?
A 何故、安藤氏は1度目に南部家と和睦出来たのか?
B 何故、和睦の条件が潮潟四郎重季と南部義政の娘との婚儀なのか?
C 何故、安藤政季(師季)は殺されなかったのか?
D 何故、安藤政季は宇曽利(下北半島)に配されたのか?
E 何故、安藤政季は下国家安藤家宗家に就任出来たのか?
F 何故、安藤政季は僅か2年で道南部の体制を築けたのか?
G 何故、安藤政季は格下のはずの上国家の要請を聞き入れたのか?
H 何故、安藤政季は藤崎城に侵攻したのか?
I 何故、安東忠季は下国恒季を討ち取ったのか?
J 何故、安東尋季は蠣崎光広に「松前」守護職を認めたのか?
K 何故、安東舜季は蠣崎家とアイヌとの講和に立ち会ったのか?
L 愚痴と総括

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