秋田・安東氏:「新羅之記録」の疑問

  秋田県:歴史・観光・見所(ホーム)秋田氏・安東氏「新羅之記録」の疑問>何故、安東舜季は蠣崎家とアイヌとの講和に立ち会ったのか?

概要・歴史・観光・見所
K 何故、安東舜季は蠣崎家とアイヌとの講和に立ち会ったのか?
安東舜季は尋季が天文3年(1534)の死去に伴い下国(檜山)安藤氏宗家を継ぎ、天文22年(1553)に死没しています。法名:浄光院靠山洞虎。「安東氏秋田系譜」によると「鹿季九代ノ後孫堯季カ之婿」とある為、上国(湊家)安東堯季の娘を正室として迎えたと思われます。秋田・安東氏側からは以上の事しか解りません。そして再び「新羅之記録」です。それによると安東舜季については大きく2つの事が書いています。1つは天文15年(1546)に河北郡深浦にある森山城の城主飛騨守季定が謀反を起し、安東尋季父子により討伐され、蠣崎季広も兵を率いて援軍に訪れたとされます。もう1つは、天文19年(1550)に安東舜季は蝦夷地を視察する為に海を渡り、さらに、アイヌ人と蠣崎家との和平として成立した「夷狄商船往還法度」を承認したとされます。多くの書籍では1つ目が蠣崎家は下国(檜山)安東家に対して忠誠を誓っている証拠とし、2つ目に対しては、下国(檜山)安東家が当時も蝦夷地に対して大きな影響力があった証拠としています。

何度も書きますが、私は素人なので、基本的に感想文です。それでは、感想を始めます。まず、天文15年(1546)に安東尋季父子・・云々、とありますが、家系図上は尋季は天文3年(1534)に死去している事から、人名又は年号が間違っているか意図的に改竄された可能性があります。さらに、「新羅之記録」の後に編纂された古文書は森山攻めが天文15年(1546)に安東尋季と蠣崎季広・・云々と表現している事から基本的には間違ったまま写し取ったと思われます。まず、深浦町の中心近くにある深浦館は当時は千葉(深浦)弾正が城主で天文年間(1532〜1555)又は天正年間(1573〜1592)に大浦氏(津軽氏)の侵攻により落城しています。そういう意味では森山城(館)は千葉氏に対する前進基地だったのかも知れません。深浦館が天文年間(1532〜1555)に落城したとしたら、森山氏は大浦氏に寝返った可能性があります。蠣崎季広側から見てみると「季広乃ち津軽の小泊に渡り、森山に着せり。 ・・・・云々」とあります。素直を読むと、蝦夷地から海を船で渡り小泊に上陸し、陸路にて森山に着陣した事になります。大浦氏(津軽氏)の居城である種里城が築城されたのが延徳3年(1491)、文亀2年(1502)には大浦城を築き本拠を移していますが、種里城には一族が配され、16世紀半ばには西浜地区一体は大浦氏によって掌握されていたと思われます。元々、大浦氏は安東氏対策で南部家から派遣されていた事から、その領内を縦断するように進軍すると不可能で、例え無事に森山に着陣したとしても、さすがに、戦いがあれば大浦氏に気付かれ退路を絶たれると思われます。そう考えると天文15年(1546)に森山飛騨守季定が安東氏に対して反旗を翻す可能性はありますが、蠣崎季広が戦いに参加した可能性は無いと思われます。

2つ目の所謂「東公の嶋渡り」については、客観的に検証する材料がありませんので、あくまで個人的な感想ですが、今までの経緯から安東舜季が蝦夷地に渡るとは考えられません。津軽の下国安東氏と秋田の下国(檜山)安東氏とは基本的に別物です。津軽の時代には蝦夷管領や蝦夷沙汰職、日之本将軍など全て幕府や時の為政者により認められた存在で権威があり、それと同時に蝦夷を統治する義務がありました。秋田時代にはそれらを証明する具体的な文献や古文書などは私が知る限りでは全くありませんし、下国(檜山)安東氏と幕府がどの様の関係だったのかも解りません。もし、幕府や足利将軍家、管領家、貴族などから蝦夷地を統治するような命令が下されていたなら、少なくとも雰囲気だけでも感じられはずです。当時の下国(檜山)安東氏の領地にしても、江戸時代の檜山所預の多賀谷氏が8千石から1万石程度だった事を見てもせいぜい2万石程度の土豪の1人に過ぎず、幕府からは全く無益な存在だったと思われます。前述の通り、当時は大浦氏の南下は始まっており、それに加えて、浅利氏にも備えなければならず、当主自ら蝦夷地には行けなし、行く実力も備わっていないと思われます。下国(檜山)安東氏は愛季の出現をもって大きく版図を広げ幕府や中央の大名との繋がりを持ち注視されるようになったので、それ以前は決して大きな存在ではなく、ましてや、蝦夷地に対して影響力を効し出来るはずも無く、逆に影響力があれば、檜山や能代にその形跡が残っているはずです。さらに言えば、天正18年(1590)の奥州仕置きで松前家が独立した大名として認められるのも、それに安東家が全く反対しないのも理解出来ません。自分の家が本当に蝦夷管領や蝦夷沙汰職、日之本将軍で蝦夷地から上納金などの利潤を得ているとしたら、そんなに簡単に手放すはずがないし、豊臣系の有力大名に手を廻し松前家の独立を阻止するはずです。又、松前家は幾ら小田原に参陣しても、「新羅之記録」の世界観が本当だとしたらせいぜい与力大名として安東家の下に入るはずで、隣の津軽家と南部家の応酬を見ても解るように本来家臣筋が独立を図るのには大変な問題で、一触即発の自体も招きかねない状況に陥ります。松前家と安東家にはそれが全く見られず、かといって仲が特別良かったとも思えません。前に戻りますが津軽の下国安東氏と秋田の下国(檜山)安東氏とは基本的に別物で、下国(檜山)安東氏にとって松前家が独立した大名だろうが、どうだろうが関心がない、ただそれだけの事です。「新羅之記録」の中で安東氏とは一種の駒のような役割を果たし、必要な時にだけ盤の上に配され、不必要になれば消される、さらにトランプのジョーカーのように切り札として利用されているだけの話です。

「新羅之記録」の疑問
@ 何故、安藤氏は2度津軽を離れたのか?
A 何故、安藤氏は1度目に南部家と和睦出来たのか?
B 何故、和睦の条件が潮潟四郎重季と南部義政の娘との婚儀なのか?
C 何故、安藤政季(師季)は殺されなかったのか?
D 何故、安藤政季は宇曽利(下北半島)に配されたのか?
E 何故、安藤政季は下国家安藤家宗家に就任出来たのか?
F 何故、安藤政季は僅か2年で道南部の体制を築けたのか?
G 何故、安藤政季は格下のはずの上国家の要請を聞き入れたのか?
H 何故、安藤政季は藤崎城に侵攻したのか?
I 何故、安東忠季は下国恒季を討ち取ったのか?
J 何故、安東尋季は蠣崎光広に「松前」守護職を認めたのか?
K 何故、安東舜季は蠣崎家とアイヌとの講和に立ち会ったのか?
L 愚痴と総括

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