秋田・安東氏:「新羅之記録」の愚痴と総括

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L 愚痴と総括
最後に又、同じような事を書きます。あくまで、感想であり愚痴でもあり、つぶやきでもあります。「新羅之記録」は本当に素晴しい文化財で、今後も後世に伝えるべき存在です。そして、書かれている事柄は異常な程に支持され、ありとあらゆる、文献や資料、研究、調査、歴史書、書籍などに影響を与えている事を始めて知りました。私も多くのサイトを製作する際、何気にそれらの資料を読んでまるで本当の歴史だったかのように表現していました。今回、たまたま、秋田・安東氏について調べて、簡単にまとめたサイトを製作しようと、複数冊の書籍を読み、恥ずかしながら、はじめて「新羅之記録」を意識しました。多くの書籍は「新羅之記録」から引用し、基本的に真実や真実に近いように表現され、多少の疑問、誤記、真意は解らない、今後の調査がまたれる、などと記載されています。最初は何も疑問を持ちませんでしたが、余りにも「新羅之記録」の引用が多かった事から多少調べてみると、他の引用している資料なども、殆どが「新羅之記録」が編纂された後に製作されたもので、大きく影響を与えている事が分かりました。又、「新羅之記録」に書かれた事が客観的に検証出来るような別の古文書などの資料が現在殆ど無い事が分かりました。その為、「新羅之記録」に書かれている事が具体的に真実かどうか基本的には誰も調べようが無く、丹念に家系図に出てくる人物名や没年、享年などから推察する事しか出来ません。これは、私が調べた訳ではありませんが、一例をいうと松前氏の祖としている武田信広は「新羅之記録」には若狭国の守護大名・武田信賢の子供と名言しているのにも関わらず、実際若狭武田家の家系図で信広と思われる人物を探す事が出来なかったそうです。若狭武田家は大名で家系図や資料なども比較的にある為にこのように検討出来ますが、「新羅之記録」に出てくる多くの家臣や相手方にはそれらの資料が極端に少なく、さらに後年製作されたものは改変されている可能性が高い為、中々、全てを検証する事は難儀な事と思われます。特に秋田・安東氏側の資料は皆無に等しい状態で現在伝えられている家系図もバラバラで、私が書籍等で目にする事が出来る家系図も、どうも執筆者の主観のようなものが加筆されているような印象を受けます。私は専門家では無いので、それらを学問的な見地で検証する事は出来ませんし、批判をする事は出来ません。ただ、サイトを製作するにあたり、多少の疑問を持ち泥沼のようになってしまったという経緯です。

最初に疑問に持ったのが安藤政季が何故、下国家宗家の跡を継いだ事です。これは本当に不思議な事で一般的な常識とは全く異なります。これだと最後の直系当主とされる安藤義季に5等身以下の親族が全くいなく、唯一残された政季が必然的に当主に就任したかのようです。一族が滅亡するのは戦国時代にそう珍しい事ではありませんが、武田勝頼のように一族を連れ立ったまま敵方に囲われ自刃する事や、城に立て籠もり一族もろともといった事例でしかありえません。そして「新羅之記録」では蝦夷地(道南部)での新しい制度、体制を2年間で確立したのが政季となっています。新たな宗家に就任する事も不可解なのに、領内の勢力を抑え込み新制度を導入するとは不可解に不可解を重ねているようなものです。そして政季は新制度が確立すると秋田に旅立っていきます。この一連の流れは研究者や専門家の人達は疑問を感じないのかが本当に不思議です。例えば、蝦夷地での最高権力者の地位よりも、好条件が理由でなら指導者としては失格なものの一応の理由が付きますが、これも客観的な資料が無いので何とも言えませんが、とても権力者として遇されたというより上国安東家の一客将として配されたといった印象を受けます。それが、長年かけて下国安東家が築き上げた津軽、蝦夷地から移る理由としては余りにも不合理すぎて素人考えでは全く納得が出来ませんでした。さらに、多くの書籍や資料は「新羅之記録」を引用、追認し、深く追求するような姿勢が見られず、私は不信感を抱くようになったのです。私は「新羅之記録」の秋田・安東氏に関係があるところ以外は基本的に見ていませんので、他にどの様な事が書かれているのかは解りませんが、少なくとも蠣崎氏(武田信広含む)と安東氏が絡む大部分が合理的に説明出来ません。

1つを挙げると安藤政季の年齢に関する疑問です。私が見た限りでは政季の没年齢に言及しているのは1冊で36歳としています。他は書かれていない為、不詳という事だと思います。家系図にも色々ある為に真意は不詳なのですが、あるものには政季の没年は長享2年(1488)、跡を継いだ政季の子供とされる忠季が永正8年(1511)没、享年24歳、その跡を継いだ政季の弟と思われる尋季が天文3年(1534)没、享年54歳と書かれています。それらが真実とすると、政季が死んだ長享2年(1488)では忠季が1歳、尋季が8歳という事になります。ここで、政季の常識的な年齢が復元されます。当然、豊臣秀吉の例もあるので一概には言えませんが、まず、死ぬ1年前に子供が生まれている事から長享元年(1487)時点で16歳から39歳と想定出来ます。さらに、その年の差を弟にも当てはめると政季の年齢は16歳から31歳が世の中の常識的なラインという事になります。この事から「新羅之記録」で記載された蝦夷地を離れ、秋田に来た康正2年(1456)時での政季の年齢は−15歳から0歳となり、政季関係のエピソードは事実上信用性を失います。確かに、「新羅之記録」が真実で家系図で記載されている方が間違っている可能性もありますが、これは1例を挙げているだけで、多くの事象が不合理すぎて逆にどうして「新羅之記録」の方に信用性があるのかが不思議な位に素人目には映るのです。

そして後半に散々言ってきた津軽の下国安東氏と秋田の下国安東氏の性格の違いです。現在でいう会社の社風のようなものが継承された印象は素人目には感じられません。私が知る限りで唯一繋がりと思われるのが津軽下国家の菩提寺とされる補陀寺から住職を招き忠季が菩提寺である国清寺を創建したとの伝承のみです(ただし、記録上は召還した僧侶の没した後に国清寺が創建されています)。ただ、この補陀寺も余りにも謎が多すぎてよく解らない寺で、ある書籍には十三湊付近にあったのが檜山に移され、さらに現在地(秋田市)に移されたような記述がありますが、寺伝や寺暦には一切そのような記述が無く、下国家の祖となった盛季の位牌には他の家系図とは異なった没年齢が刻まれているそうです。話はそれましたが秋田の下国安東氏には「海」や「蝦夷地」が私には全く感じられないのです。本来、安東氏は海に関わって権力を拡大したと思われる氏族で海運業などは財政の要で最も特異な分野であるはずですが、実際は上国家との合併を果たした愛季以降の事でしかも、貿易の中心は土崎湊で行われ、能代湊の整備が進んだのは鉱山の開発や、秋田杉の需要が高まってからです。もし、自分が下国家の当主だったら、詰め城として檜山城を維持しながら、居館を能代湊の近くに設け、蝦夷地を統治する権限を利用して第2の十三湊建設に尽力しますがどうでしょうか?

不合理に感じた事は既に沢山書いたので、確証が無いものの自分が合理性があるところを一応挙げますと、まず、文安2年(1445)安藤康季が津軽西浜に上陸し引根城を築城し翌年病死した件です。「新羅之記録」では嘉吉3年(1443)に下国安東家が南部家に敗れ蝦夷地に逃れていると記載されている為、それだと、僅か2年で壊滅した軍を建て直し、津軽まで遠征し城を築いた事となり、事実上不可能なのでこれは不合理となります。ただし、「満済准后日記」では下国安東家が蝦夷地に逃れたのが永享4年(1432)、家系図上は康季の没年が嘉吉元年(1441)又は享徳2年(1453)なので、これならなんとか間に合う可能性があります。これも本文中に述べましたが、西浜地区の深浦周辺は当時南部家の勢力外だった事から新たな拠点を築くには申し分なく、深浦湊には古くは安東浦と呼ばれた事や、海岸沿いにある弁天島には「安東船守護深浦弁天島」と呼ばれ信仰の対象になっていたなどの形跡が残り年号はともかく、康季が深浦に進出した可能性はあります。次ぎは跡を継いだ安藤義季が宝徳3年(1451)に津軽鼻和郡大浦郷に狼倉舘を築き、享徳2年(1453)に南部家との交戦に敗れ自刃した事です。義季の時代には深浦周辺を安藤氏が抑え、津軽平野に進出する為、又南部家の深浦へ侵攻を抑える為に城を築く事は理解出来ますし、負ける事も順当と思います。年号や死因は解りませんが概ね合理的です。何しろ蠣崎氏(武田信広含む)と絡んでいない為、他の事象と比べても信頼度があります。天文15年(1546)の森山城攻めも半分は理解出来ます。森山氏が安東家を離反する可能性があるし、それに対して安東家が粛清する事は理解出来ます。ただし、その年号だと家系図上は尋季が死んでいる矛盾があり、蠣崎季広が参陣する事も不可能なので、戦い自体をでっち上げたか、本当に戦いはあったが、蠣崎季広を架空に参加させる事で名声ぶりを演出した可能性があります。

ここからは、疑問Kでさんざん言ってきたので繰り返しとなりますが、「新羅之記録」は松前氏、蠣崎氏、武田信広の正当性を内外に知られる側面があります。その為、安東氏の忠実の家臣として演じ、最終的には安東氏が決めた事(夷狄商船往還法度の承認)、安東氏が殺した事(安東忠季による下国恒季の殺害)、安東氏が認めた事(蠣崎氏の松前守護職容認)として責任を回避しているという構成になっています。その為、何処からともなく安東氏が現れ、それらの事象を解決し、それが終わると消えていき、不自然にならないように、蠣崎氏が時々現れ美談のような創作した挿話を入れ込んだり過剰に安東氏を大きく見せている訳です。上記のような蠣崎季広が援軍で安東氏を助けた事や武田信広が安藤政季を奉じて下北半島から蝦夷地に入った事、安藤政季が蝦夷地にいた2年間で3守護体制を作り上げた事、安東忠季が僅か8歳で葛西秀清を滅ぼし檜山城を築いた事などはそれに当たります。

そして、「新羅之記録」の年号の決め方が逆算方です。まず、要所要所で決まったある年号で特定の人物が行う行為を決定し、そこから逆算して、それに似合うように年号と事象を振り分けていきます。これにより「新羅之記録」の世界観では一見辻褄があいますが家系図等とは異なってくるのです。これも何度も書きましたがおさらいでもう一度。松前氏にとって祖である武田信広を正当化する事がまず第一で、その為に色々と思索している跡が見受けられます。康正3年(1457)に下北半島の北部で「田名部の乱」や「蠣崎蔵人の乱」と呼ばれる大乱が発生し、その首謀者が蠣崎蔵人で、蠣崎蔵人が武田信広である可能性が高いとされています。乱自体は南部藩や記録や山科教兼の任官推挙状がある事から発生したのが確実で逃れられない事実である事から、「新羅之記録」ではその乱の発生を記述せず、康正3年(1457)以前に武田信広を蝦夷地に入った事で、乱と武田信広が関係ない事を印象付けています。一方で下国安東氏の当主安藤義季が享徳2年(1453)に死没している事から、享徳3年(1454)に新たな当主となる安藤政季と供に蝦夷地に入った事にすれば、安藤氏と武田信広との関係が演出出来る為に享徳3年(1454)という年号が決定される訳です。この享徳3年(1454)を基本にして、享徳2年(1453)に武田信広が下北半島に在住、宝徳3年(1452)に若狭国小浜の武田家から出奔したという物語が作られるわけです。安藤政季も下北半島にいる為にもっともらしい理由を付け南部家の血を引いているという設定にしているだけの事です。そして康正3年(1457)です。先程述べたように蠣崎蔵人の乱の首謀者が武田信広ではまずいので、同年に「コシャマインの戦い」という戦いで大活躍したとして蝦夷地での地位を向上させると供に「蠣崎蔵人の乱」とは関係無い事をさらに強調しているのです。「コシャマインの戦い」という戦いが本当にあったのか?その年であったのか?アイヌ人の反乱なのか?は実は誰にも解らず、ただ「新羅之記録」に記載されているから、真実から真実に近い何かが起こったと推定されているだけです。「コシャマインの戦い」自体、武田信広にとって、本当に都合のいい戦いで、そして、この戦いには信広の引き立て役である安藤政季は必要ない為に前の年の康正2年(1456)に秋田に移った事にしているのです。安藤政季が蝦夷地の最高責任者であれば、秋田に移る必要性は全くありません。

それでは安藤政季がどの様に物語上で位置付けれているか見てみましょう。

@:享徳3年(1454)に安藤政季は武田信広と供に蝦夷地にいなければならない。
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A:@を満たすには安藤政季は享徳2年(1453)に下北半島にいなければならない。
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B:安藤政季は潮潟家なので、尻八城か蓬田城が居城なのでAを満たしていない。
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C:Aを満たすには南部家から下北半島に配されないといけない。
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D:潮潟家(安藤政季)は安藤一族なので、Cを満たしていない。
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E:Cを満たす為、政季の父親である重季と南部家の当主、南部義政の娘を政略結婚させ、戦後引き取った事にした。
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F:政略結婚したのに南部家と安藤家が対立するのは矛盾するのでEは満たしていない。
↓
G:Eを満たす為、南部義政が安藤盛季を訪ね謀略により、安藤氏が蝦夷地に逃れた事にした。
↓
H:南部家が引き取った政季が壮年ならば斬首、幼少ならば、蝦夷地で采配が無理の為に、享徳3年(1454)時点での政季の年齢を新羅三郎義光が14歳で元服した事に因み、数え年で14歳になるように設定。その為にあたかも永享12年(1440)に重季と南部義政の娘を結婚させたように暗示させる為に、同年に安藤盛季の娘を義政に嫁がせ、その2年後にGの義政が盛季を訪ね謀略した年が嘉吉2年(1442)になった。これ以上、早い年になればなるほど、その後の政季の明確な家系図との乖離が顕著となる。例えば、嘉吉元年(1441)に政季が生まれたと想定したら、46歳に子供とされる忠季が生まれた事になり、これでもかなり厳しい。

以上のように享徳3年(1454)に安藤政季が蝦夷地にいる為の必要条件を満たすように物語が構成されているのが解ります。これにより、一応物語が成立する為にあたかも本当にあったかのように錯覚してしまいます。それではしつこいようですが項目毎に合理的か不合理か再度みてみましょう。

H:嘉吉2年(1442)は家系図上、安藤盛季と南部義政は既に死んでいる。不合理
↓

G:幾ら嫁の舅でも敵方の居城に南部家の当主が行く事は考えられない。不合理
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E:圧倒的な有利な南部家の当主の娘が、敵方の庶流と血縁関係を結ぶのは身分の違いからありえない。不合理
↓
A:安藤一族を下北半島に配するのは反乱や謀反の温床となる為に配置する事は無い。よって不合理。
↓
@:宗家から見ると又従兄弟となる政季が宗家を継ぐ事は不合理。血筋的に遠い当主が僅か2年で新体制を造りあげるのは不合理。僅か2年で秋田に移る事は不合理。

世の中には不合理の事は決して無い訳ではありません。確かに1つの項目だけを見れば少ないながらも全く可能性が無いとは言い切れないものもあります。しかし、殆どの事象が可能性が低く、それが連続して政季の身に起こる事は極めてというより限りなく0に等しく、逆にこれが創作された物語とすれば合理的に理解出来ます。その後の秋田の下国(檜山)安東氏の蝦夷地支配は余りにも非現実的で「新羅之記録」以外で文献や遺物、伝承などにも全く伝わっていません。私が言っている事は全て間違えかも知れませんが、「新羅之記録」にも確証が無く、数多くの矛盾を抱えているのも事実です。今後の研究に期待したいと思います。

最後に、全く私の考えに当てはまらない事象があります。それは文明2年(1470)に安藤政季が藤崎城に侵攻している事です。これは疑問Hで書きましたが、政季が藤崎城に侵攻するのは事実上無理な事から架空の話の可能性が高いはずです。しかし、この事象を「新羅之記録」ででっち上げても誰も徳になる人物がいません。今回採り上げた中で唯一自分の考えと矛盾しています。ただし、「新羅之記録」の世界観では政季が秋田に渡ったのは失地の回復を目的にしているように表現されている事から物語としては成立しています。逆に政季が何も行動を起さないと何の為に秋田に渡ったのか解らなくなり、安藤氏発祥の地である藤崎城を一応攻めて敗れた事にしたのかも知れません。そして長享2年(1488)に長木大和守が謀反を起こし政季は糠野城で自刃したと表現されています。自分の知る限りで安東家の当主で家臣の裏切りで自刃まで追い込まれたのは政季が唯一で、別に政季が藤崎城に侵攻した訳では無い為、長木大和守なる人物が謀反したのかも検証が不可能です。これは疑問Iでも少し触れましたが、忠季が生まれた翌年に政季が死ぬ事にかなり不信感を持っています。私の考えでは秋田の下国家は上国家の傀儡だと思っていますので、壮年期になった政季が上国家からの独立を画策し、失敗、幽閉されている間に幼少の時期当主を擁立され、自刃に追い込まれたという事も考えられます。そうなると各自の年齢差など吹っ飛んでしましますが。真相は解りません。

「新羅之記録」の疑問
@ 何故、安藤氏は2度津軽を離れたのか?
A 何故、安藤氏は1度目に南部家と和睦出来たのか?
B 何故、和睦の条件が潮潟四郎重季と南部義政の娘との婚儀なのか?
C 何故、安藤政季(師季)は殺されなかったのか?
D 何故、安藤政季は宇曽利(下北半島)に配されたのか?
E 何故、安藤政季は下国家安藤家宗家に就任出来たのか?
F 何故、安藤政季は僅か2年で道南部の体制を築けたのか?
G 何故、安藤政季は格下のはずの上国家の要請を聞き入れたのか?
H 何故、安藤政季は藤崎城に侵攻したのか?
I 何故、安東忠季は下国恒季を討ち取ったのか?
J 何故、安東尋季は蠣崎光広に「松前」守護職を認めたのか?
K 何故、安東舜季は蠣崎家とアイヌとの講和に立ち会ったのか?
L 愚痴と総括

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