秋田・安東氏:「新羅之記録」の疑問

  秋田県:歴史・観光・見所(ホーム)秋田氏・安東氏「新羅之記録」の疑問>何故、安東忠季は下国恒季を討ち取ったのか?

概要・歴史・観光・見所
I 何故、安東忠季は下国恒季を討ち取ったのか?
跡を継いだとされる安東忠季も記録が少なく謎の人物です。最も中世の記録自体少なく、さらに後年改変などが行われる為、私の様な素人には全く手が負えないのは当たり前のような気がします。忠季について、どの様な資料を参考にしたのかは分かりませんが多くの安東氏関係の書籍には概ね、明応4年(1495)に河北郡の領主葛岡出羽守秀清を討ち取り河北千町を領地として、檜山城を築き、檜山屋形と呼ばれるようになったとされ、さらに明応5年(1496)蝦夷地の「松前」守護の下国恒季が悪政を働き「上ノ国」守護の蠣崎光広等から訴えられ、下国安東家の当主として恒季を討ったと書かれています。一方、多くの家系図上では父親の政季が長享2年(1488)没、忠季が永正8年(1511)没、享年24歳と記載され、逆算すると政季の没年の1年前に生まれた事になり、僅か1歳で家督を継いだ事になります。これもかなり恣意的に改竄されているのかもしれませんが、それを信じれば僅か8歳で葛岡出羽守秀清を討ち取り檜山城を築き、9歳で蝦夷地まで出兵し下国恒季を討ち取った事になります。本当でしょうか?

又、少し前に戻りますが安藤政季は秋田の地で、下国家当主になった可能性が高いという話をしました。極端にいうと、上国家の後ろ盾の元に勝手に宣言しただけの話で、蝦夷地に残されていた、本来の下国家関係者から支持されていた訳でもなく、認められていた訳でも当然ありません。当然、蝦夷地でも下国家を相続する家がありそれを継いでいたのは、最後の下国家安東氏の直系と思われていた安藤義季の弟と思われる人物である下国定季です。どこまで信用出来るか解りませんが「松前下国氏体系図」の中に「一説ニ恒季ノ父山城守定季ハ下国康季ノ子ナリ」、「実否いまだ詳かならず」という一文があります。そのまま解釈すれば、本当かどうも解らないが一説によると下国家の当主だった安藤康季の子供が定季という事となり、義季の弟という事なります。もし、義季に子供がいなかった場合は定季は最有力候補で、義季の享年が31歳であるから定季も当主として十分にその任に耐える年齢だったと思われます。「新羅之記録」の世界観では定季は三守護職の1人としている一方で「コシャマインの戦い」で捕虜になり武田信広に助けられる役どころで、その子供である恒季は悪行を散々働いた為、訴えられ安東忠季によって攻められ自害するという役を演じています。その為、本来蝦夷地で下国家の当主を就任したであろう定季と恒季は「新羅之記録」の世界観では情けない父親と、とんでもない悪い子供が、素晴しい秋田の下国家の当主によって討ち滅ばされたという流れになっていて、ここが、物語の終着点の一つで、ここから逆算して演出の効果を狙っていると思われます。演出の1つが安東忠季が素晴しい当主で立派な当主として描く事です。その為に前年である明応4年(1495)に葛岡秀清を討ち取とった事で広大な領地を所有し、檜山城を築き、檜山屋形と呼ばれるようになった、事にしているのです。当然、安東忠季が蝦夷地に行った可能性はありません。年齢的にも9歳という若年層ですが、前述した通り、能代湊が本格的に整備されたのは天文20年(1551)で大規模な水軍を擁して蝦夷地に向かうのは無理で、上国家安東氏に頼むとしても、蝦夷地の一代官に向けて自らの兵を差し向ける事は有りえない事です。結果的に邪魔だった蝦夷地の下国家当主家を蠣崎氏(後の松前氏)が忙殺した事を安東忠季が正義の鉄槌を下したとい風にすり替えたというだけの話と思われます。

いままでは、秋田と蝦夷地の両方に下国家が存在してきた事を話しましたが、もう1つ考えられる説があります。こちらも想像の世界ですが、蠣崎氏と上国安東氏との共謀説です。蠣崎氏は下国安東氏の勢力を駆逐したい、上国安東氏は下国家の名跡を傀儡にしたいという思惑は一致します。蠣崎氏の下国家の忙殺を上国家が容認し、下国家を滅んだのを受けて秋田で新たな下国家を創設したと考えると、色々と説明出来る事もあります。まず安藤政季の年齢です。長享2年(1488)が没年ですから「新羅之記録」の世界観では享年で50歳代の後半となり、忠季が長享元年(1487)に生まれていますから、文字通り政季の50代後半の子供という事になります。豊臣秀吉の例もあるので、全く無いわけではありませんが極めて不自然です。さらに、「新羅之記録」の世界観では第一子と思われる忠季が生まれた翌年に政季は家臣により忙殺され、これまた極めて不自然です。そして、もう1つ不自然な事が、忠季が永正8年(1511)に死去すると、子供がいなかった事から政季の弟である尋季が下国家の当主を就任し天文3年(1534)に享年54歳で亡くなっている事です。尋季の年齢を逆算すると文明12年(1480)生まれとなり「新羅之記録」の世界観では宝徳2年(1450)又は永享7年(1435)に父親であるはずの潮潟重季が討死しているはずです。そこで、前にも話しましたが、ある書籍で政季が享年36歳で亡くなったと書かれていた事です。どこの出典を採用したのかは解りませんが、それを信じると享徳元年(1452)に生まれ、忠季は35歳の時の子供で、尋季とは28際差の兄弟という事となり、かなり厳しいですが「新羅之記録」の世界観と比べるとかなりましになり、「新羅之記録」での政季の活躍は殆どが生前で行われた事になります。

前に津軽下国家と秋田下国家にはある種の断絶感がある話をしましたが、一応親子とされている安藤政季、忠季父子にも多少違和感を感じます。それは忠季が檜山家の初代となっている事です。先程、忠季が檜山屋形を称した事は演出である可能性がある話をしましたが、蠣崎氏と上国安東氏との共謀説では正しく、忠季が秋田での下国家の初代という事になり改めて檜山家を創設したとも考えられます。忠季が生まれた1年後に政季が死ぬという事はそれらを暗示させる別の意味での演出が感じられます。又、政季の菩提寺も謎で、秋田実季が宍戸藩に移封となり菩提寺を創建した際、政季の菩提寺長亨寺と忠季の菩提寺である国清寺を合わせて父親である愛季の法名「龍穏院殿拾遺萬郷鐵大居士」に因み恵日山龍穏院として秋田(安東)家の菩提寺にしたとの文書が残されている事から政季の菩提寺は長亨寺だった事が分かります。しかし、この長亨寺の痕跡は私が知る限りにはありし、秋田実季が秋田領主時代に社寺領を寄進した中にも含まれてもいません。現在、檜山には忠季の菩提寺だった国清寺の跡地と、尋季の菩提寺で法名「楞厳院殿権印宗丹」に因んだ楞厳院、舜季の菩提寺で法名「浄光院靠山洞虎」に因んだ浄明寺が存在しますが何故か長亨寺の形跡が感じられません。かなり、疑問を持ちましたが、国清寺が長亨寺を元に創建されたと私自身が納得出来た為(物的証拠はありませんが)、やはり最初の説を押したいと思います。後の説は中々オカルトぽく面白いのですが現実的に考えると秋田・安東家関係の家系図と「新羅之記録」の両方を改竄しなければならず少々無理があるかもしれません。

「新羅之記録」の疑問
@ 何故、安藤氏は2度津軽を離れたのか?
A 何故、安藤氏は1度目に南部家と和睦出来たのか?
B 何故、和睦の条件が潮潟四郎重季と南部義政の娘との婚儀なのか?
C 何故、安藤政季(師季)は殺されなかったのか?
D 何故、安藤政季は宇曽利(下北半島)に配されたのか?
E 何故、安藤政季は下国家安藤家宗家に就任出来たのか?
F 何故、安藤政季は僅か2年で道南部の体制を築けたのか?
G 何故、安藤政季は格下のはずの上国家の要請を聞き入れたのか?
H 何故、安藤政季は藤崎城に侵攻したのか?
I 何故、安東忠季は下国恒季を討ち取ったのか?
J 何故、安東尋季は蠣崎光広に「松前」守護職を認めたのか?
K 何故、安東舜季は蠣崎家とアイヌとの講和に立ち会ったのか?
L 愚痴と総括

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