秋田・安東氏:「新羅之記録」の疑問

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概要・歴史・観光・見所
C 何故、安藤政季(師季)は殺されなかったのか?
当時の南部家の当主は永享9年(1437)までが南部守行、それ以降は南部義政となり、安藤氏の当主は「新羅之記録」では安藤盛季が嘉吉3年(1443)に蝦夷島に逃れたとしています。どの資料を参考にしたのかは不詳ですが多くの書籍に応永18年(1411)に南部守行は陸奥守に就任、「後鑑(江戸時代後期に編纂された室町時代の歴史書)」によると安藤氏が応永30年(1423)に5代将軍足利義量に多くの貢物を行い「安藤陸奥守」と称されていた事が記載されています。ただし、秋田家系図によると盛季は応永21年(1414)で死没、「若州羽賀寺縁起」によると応永5年(1398)に羽賀寺(福井県小浜市)が焼失した際、安藤康季は後花園天皇の勅命により羽賀寺を再建し「奥州十三湊日之本将軍」を称していた事から陸奥守は盛季の跡を継いだ康季だったと推定されています。ここから、安藤氏の南部家の戦いは永享4年(1432)に安藤康季と南部守行が行ったと考えられます。一方「新羅之記録」では安藤盛季と南部義政が戦ったように描かれています。

戦国時代末期から江戸時代初期にかけて、大名家は自分の家を正当化する為に多くの家系図が創作され、本来、数代先は何者か分からない家柄が殆どだったのにも関わらず何故かその多くが「源平藤橘」出身の名家となっています。当然、現在で言うシナリオライター的な職業が存在し「新羅之記録」を造り上げたと想像出来ます。これは、当時の殆どの大名が行ってた事で何ら恥じる事ではありませんが、それが真実でもありません。「新羅之記録」は基本的に松前氏を正当化する為に創作されたもので、特に寛永14年(1637)に火災によって焼失した古文書を記憶を頼りにまとめたものと言っている以上、取り扱いは大変な注意が必要です。

話を戻します。松前氏を正当化するという事は蠣崎家を正当化する事で、さらには武田信広を正当化する事です。しかし、現実では武田信広とは全く正体不明の人物で、両親だけでなく、職業や身分、年齢なども不明なのです。その、正体不明の武田信広が何故か実力者だった蠣崎家に入り込み、その後裔は主家だった下国安東家を排斥し道南部を掌握しました。これらを正当化するには架空の下国家当主を捏造し、代々その忠実な家臣を演じる事で自らの謀略を下国家当主が認めた行為として表現しているのです。その為、武田信広を正当化する一種の装置として安藤政季が存在し、安藤政季を引き上げる事で相対的に武田信広が引き立つという構成になっていると思われます。まず、何度も言っていますが安藤政季が下国家宗家を継げる立場にはありません。安藤盛季の弟である潮潟四郎通貞の孫と言われてると何となく血筋が近い感じがしますが、実際は正統派最後の当主となった安藤義季から見ると又従兄弟にあたり現在でいうところの6等親も離れています。家系図に描かれてはいませんが、義季の兄弟や義理の叔父や従兄弟など当然存在していたと思われ、血筋的には政季の立位置は低いと言えます。その為に嘉吉3年(1443)にあたかも安藤盛季が存在し南部義政と戦った事を強調する事で政季が盛季の近親の血縁者であるように演出し仕事が終わった文安元年(1444)静かに永眠となりました(家系図通りだと応永21年:1414年)。そして文安2年(1445)康季が陣中で病死、当たり前ですがあれだけの大敗を喫し2〜3年で挙兵出来る訳はありません。因みに相手方の南部義政は南部家の家系図では没年が永享12年(1440)です。私のような素人だと応永21年(1414)で死んだ者と永享12年(1440)で死んだ者が嘉吉3年(1443)に天国で喧嘩しているようにしか感じませんが、「新羅之記録」を概ね信じている、研究者や専門家は家系図の方が間違っている立場を採っているようです。十三湊での攻防でも南部義政が嫁の父親(盛季)に遭いに行き城内に南部軍を率入れ福島城が落とされたと表現していますが、圧倒的な有利な立場の南部家の人間が安藤氏側に挨拶しに、本城までいく事は基本にありえなく、ここでも創作の匂いを感じます。こうして見ると何故、嘉吉3年(1443)なのかは明かのような感じがします。そして南部家の当主南部義政と係わり合いです。政季は安藤家一族で外浜(津軽半島の陸奥湾沿岸部)を領していた潮潟家である事から本来全く南部家とは関わりのない存在です。そこで、政季の母親を義政の娘に仕立てる事で、政季は義政の孫となり血統の良さを広く訴え、さらに安藤盛季と南部義政が争う事でそれらの事を印象付けているです。前にも述べましたが、南部家の当主家の娘が敗残者安藤氏の庶流に嫁ぐ可能性は無く、その後の物語に続く演出の1つという事になります。

宝徳2年(1450)、南部政盛が潮潟家の居城である蓬田城を急襲、潮潟家は滅ぼされ、政季(師季)とその母親だけが南部義政の血縁者という事で命が助けられ南部方に引き取られたとされます。先程の伏線が効いています。当時としては有りえない身分の格差が有り過ぎる婚姻関係によって生まれた政季(師季)が、その血筋によって命が助かっています。又、後ほど述べますが、この戦で死去したと思われる政季(師季)の父親である重季が生きているとしか思えない跡継ぎ問題が見られます。宝徳2年(1450)、この年号も絶妙です。下国家宗家最後の直系と思われる安藤義季が享徳2年(1453)に死ぬからです。享保2年(1453)に義季が死去した事は数多く家系図で記載されている為にこの年号は確実しされています。宝徳2年(1450)当時、政季(師季)は何歳だったのでしょうか?永享4年(1432)に敗れた安藤氏が和睦条件として婚姻を結んでいるとしたら(ありえませんが)最長18歳、しかし、当時の元服年はバラつきがあるものの、元服していたら血縁者でも許されなかったし、かといって、康正2年(1456)には蝦夷地で三守護体制を築いたとすれば若年ではありえません。12歳位が限界かも知れません。

さらに言えば、蓬田城(正確に言えば蓬田城とは記載されていないようです、蓬田城は潮潟家の居城である事から推定しましたが尻八館で永享7年:1435年落城説、尻八館で宝徳2年:1450年落城説があるようです)が何故、宝徳2年(1450)に攻められるのかも疑問です。蓬田城の位置は十三湊から丁度反対側の陸奥湾沿いにある城で、戦略的には微妙な位置にあります。南部軍が十三湊に侵攻する為には大きく、日本海沿いと十三湖の東側と、陸奥湾沿いに大きく迂回し十三湊の背後に廻り込む3つのルートが想定されます。その迂回ルートに蓬田城は位置しています。もし、南部軍は迂回ルートを選択しなくとも、戦線が延びきった時点で油川などの交通の要衝が押えられれば、補給路が断たれる恐れや、背後から強襲される恐れがある事から、十三湊に軍を進める前に蓬田城を少なくとも無力化させる必要があります。当然、十三湊を占拠した後に、陸奥湾側から迂回ルートを使って背後に廻られる恐れもあるある為、蓬田城は「新羅之記録」を尊重するれば嘉吉3年(1443)、実際は永享4年(1432)前後に落城又は開城していると思われます。

「新羅之記録」の疑問
@ 何故、安藤氏は2度津軽を離れたのか?
A 何故、安藤氏は1度目に南部家と和睦出来たのか?
B 何故、和睦の条件が潮潟四郎重季と南部義政の娘との婚儀なのか?
C 何故、安藤政季(師季)は殺されなかったのか?
D 何故、安藤政季は宇曽利(下北半島)に配されたのか?
E 何故、安藤政季は下国家安藤家宗家に就任出来たのか?
F 何故、安藤政季は僅か2年で道南部の体制を築けたのか?
G 何故、安藤政季は格下のはずの上国家の要請を聞き入れたのか?
H 何故、安藤政季は藤崎城に侵攻したのか?
I 何故、安東忠季は下国恒季を討ち取ったのか?
J 何故、安東尋季は蠣崎光広に「松前」守護職を認めたのか?
K 何故、安東舜季は蠣崎家とアイヌとの講和に立ち会ったのか?
L 愚痴と総括

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