秋田・安東氏:「新羅之記録」の疑問

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概要・歴史・観光・見所
F 何故、安藤政季は僅か2年で道南部の体制を築けたのか?
安藤政季は下国家の宗家を継ぐだけでも不思議なのに、僅か2年に蝦夷地を掌握し、道南十二館に一族家臣を配し、さらに領内を「下ノ国」、「松前」、「上ノ国」の三地区に分け、「下ノ国」には茂別館の安東家政、「松前」には大館館主の下国定季、「上ノ国」には花沢館館主の蠣崎季繁の3人を「守護」に任じ所謂「3守護体制」を敷くことに成功しています。これだけを見ると立派な青年当主に見えますが、生まれた年が分からないの年齢は不詳です。宝徳2年(1450)に12歳位では、と言いましたが、それぞれの事象に対応するには基本的に有り得ませんが、有り得るとしたらこの位しか無いという年齢です。康正2年(1456)時点で18歳となり、16歳から18歳の僅か2年間で領内を掌握し新体制を築くという離れ業を行ったという事になります。単純にこれ以上年齢が高いと南部家から斬首されたという想定ですが、これでもかなり無理があります。このように、無理と思われる年齢をこちら側で設定しないと成り立たなく、何故この事を指摘していないのか不思議です。年齢といえば、ある書籍に政季は長享2年(1488)享年36歳と書かれていました。私が知る限りでは多くの家系図では没年の長享2年は同じですが年齢が記載されているものはありませんでした。どの様な資料を基に36歳という年齢に辿りついたのかは不詳ですが、そこから逆算すると康正2年(1456)時点では4歳となります。当然、「新羅之記録」を信じる人達からは全く話にならない年齢ですが、実は私も政季の没年齢は30代半がギリギリと思っていたので奇妙に一致しています。

それでは、政季が行ったという新体制を少し見てみましょう。まず「下ノ国」の茂別館の安東家政です。実は安東家政は政季の弟で、父親も同じ重季とされる人物です。これは、後の松前藩の家老を歴任した下国家が伝える家系図に記載されてるもので、当然事実かも知れませんし、祖先を下国家安藤氏宗家の弟とする事で自分の家柄の正当性を主張したとも考えられます。ただし、家政が政季の弟であると不思議な事になります。宝徳2年(1450)に南部家の侵攻によって重季は死没し、辛うじて政季とその母親は南部家の血を引いているので助けられた的な話だったはずです。安東家政が政季の弟であるならば、実は家政も南部家の血筋を引いている為に助けられ、兄と共に宇曽利に配され武田信広と共に蝦夷地に渡ったのでしょうか?又は蓬田城が落城した際、兄とは生き別れ、家臣が家政を連れて蝦夷地に逃れ、この地で涙の御対面となったのでしょうか?さらに言えば、年若く血筋的には遠い存在の政季が当主となり、かなり家中に不満がある中、政季よりさらに年少者である家政に要職を与えるような愚作を行ったのでしょうか?ますます謎は深かまるばかりです。

次ぎに「松前」の大館館主の下国定季です。下国定季は名称から安東氏一族と思われる人物ですが「松前下国家大系図」では「一説ニ恒季ノ父山城守定季ハ下国康季ノ子ナリ」と記載(真偽不明)されている事を根拠し下国家安藤義季の弟とされる人物で、以外と多くの人が支持しているようです。そう考えると現在の登場人物の中では存続権が圧倒的な大差の第1位という事になります。当然、家督相続争いが発生してもおかしくはありませんし、血統的には定季が勝っていますし、当然政季よりも早く蝦夷地に居住していたと思われます。先程、安藤義季の津軽遠征には蝦夷地に信用あるものが後方部隊を指揮する必要がある言いましたが、もし定季が義季の弟ならば、年齢も壮年期にあたる為、まさにうってつけの人材となり、家臣団からの信任も篤かったと思われます。もし、政季が「3守護体制」を築き、定季が「松前」の守護職ならば、対立後に排斥されたのでは無く、従ったという屈辱を選んだという事となり果たして、想定16〜18歳の少年がそのような事が出来たとは到底思えない采配です。

次ぎに「上ノ国」の花沢館館主の蠣崎季繁です。蠣崎という名称は下北半島に蠣崎という地名がある事からここを本拠した土豪出身者だという事が想像できます。少なくとも鎌倉時代後期から安藤氏が蝦夷地に追いやられるまで下北半島の北部は安藤氏領だった事からその頃から安藤氏に従ってきた家柄と思われ、地勢的には安藤氏領の飛地だった事から領主クラスとして配されていたのかも知れません。又、蠣崎季繁の養女が政季の娘で、そこに武田信広が婿入り蠣崎氏を継いだという説が一般的ですが政季が蝦夷地にいたのは享徳3年(1454)から康正2年(1456)までの僅か2年です、無理やりこじつけた想定年齢は16〜18歳で、全うな方法ではない形で下国宗家を継ぎ、新たな体制を築きあげた中に女子を設けて蠣崎季繁に養女に出したのでしょうか?あるいは秋田に渡った後に出来た子供を蝦夷地まで送り届け養女に出したのでしょうか?さらに言えば「新羅之記録」が正しければ康正2年(1456)の時点で武田信広は25歳です。康生3年(1457)のコシャマインの戦いで大功を挙げた武田信広が養子に入ったとされるので26歳と僅か2歳(推定)との結婚、まあ、戦国時代ではよくある話かもしれませんが、嘘っぽいとしか言いようがありません。これにより遺伝子的には蠣崎氏は断絶した事となり、さらに、松前氏は代々下国家安東家の血を受け継ぐ事になり、松前氏も祖を蠣崎季繁では無く武田信広を掲げています。さらに、「新羅之記録」によると蠣崎季繁は安芸武田氏第4代、若狭武田氏初代当主武田信繁の近親者としています。当時の信繁は安芸と若狭の影響力があった事から「新羅之記録」が正しければ季繁もどちらかの出身と思われます。何故、縁も縁の無い蝦夷地に来て、現在の道南部に大きな影響力を持ったのかは謎で、当然、裏付ける資料等も無い為に追認しているのが現状です。そして、松前氏の実質的な祖とされる武田信広は「新羅之記録」によると若狭武田氏第2代当主武田信賢(武田信繁の次男)の子供で本来であれば若狭守護職を継ぐべく立場でしたが排斥された為に僅かな家臣を引き連れて三戸南部家に出奔し、田名部・蠣崎に配された後、地名に因み蠣崎氏を称するようになったと記載されています。偶然にも季繁と信広は若狭武田氏に縁があり同時期に蠣崎氏を称していた事になります。若狭武田氏方の家系図や文献、資料等には信広を思わせる人物を見る事が出来ず、記された年号から見ると当時の武田信賢が幼少時にあたる為、とても若狭武田氏の時期当主を選定するとは考えらず、当主を争ったとされる信賢の弟である国信は生まれていなかった事から捏造されたと思われます。又、南部家の正式な資料にも信広の名前を見る事は出来ません。ただし、江戸時代初期に南部氏側で記載された「北部御陣日記」によると蠣崎氏は根城南部家家臣武田修理太夫信義を祖としその後裔である武田信純が蠣崎蔵人を称し反乱を起こし南部家によって鎮圧した事が記載されています。「北部御陣日記」は所謂「東北太平記」と呼ばれる軍記物の為、史実とは異なる登場人物が登場してきており、こちらも資料的な価値は乏しいものの「八戸南部家文書」にも乱についての事がらが記載され奥州深題大崎氏の一族である山科教兼の任官推挙状が発布されている事から事実の一端を表しているとも言われています。

では誰が蝦夷地の体制を築いたのかと言えば、当たり前ですが安藤康季です。3守護体制にしたのかは解りませんが、永享4年(1432)に蝦夷地に逃れた後は領内の整備や十三湊以外の新海路の開発や家臣の配置などは康季以外は出来ません。実際、永享8年(1436)に羽賀寺(福井県小浜市)の再建を開始しているので、ある程度の再興を果たしていたと思われます。その体制をさらに維持強化したのが跡を継いだ安藤義利で、義利の没年は享徳2年(1453)なので21年間もあれば十分に新天地での体制が整のえる時間があります。決して年若い少年新領主が2年間で築けるようなものではないと思います。

「新羅之記録」の疑問
@ 何故、安藤氏は2度津軽を離れたのか?
A 何故、安藤氏は1度目に南部家と和睦出来たのか?
B 何故、和睦の条件が潮潟四郎重季と南部義政の娘との婚儀なのか?
C 何故、安藤政季(師季)は殺されなかったのか?
D 何故、安藤政季は宇曽利(下北半島)に配されたのか?
E 何故、安藤政季は下国家安藤家宗家に就任出来たのか?
F 何故、安藤政季は僅か2年で道南部の体制を築けたのか?
G 何故、安藤政季は格下のはずの上国家の要請を聞き入れたのか?
H 何故、安藤政季は藤崎城に侵攻したのか?
I 何故、安東忠季は下国恒季を討ち取ったのか?
J 何故、安東尋季は蠣崎光広に「松前」守護職を認めたのか?
K 何故、安東舜季は蠣崎家とアイヌとの講和に立ち会ったのか?
L 愚痴と総括

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