秋田・安東氏:「新羅之記録」の疑問

  秋田県:歴史・観光・見所(ホーム)秋田氏・安東氏「新羅之記録」の疑問>何故、安藤政季は格下のはずの上国家の要請を聞き入れたのか?

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G 何故、安藤政季は格下のはずの上国家の要請を聞き入れたのか?
ここで、又、又、不可解な事が起きます。安藤政季は康正2年(1456)に上国家の当主である安東惟季の誘いにより秋田小鹿島(現秋田県男鹿市)に移ったとして「新羅之記録」の記載を多くの書籍が追認しています。私は大きく疑っていますが、政季は血筋的には弱いものの、謀略か武力かでどうにか下国家の当主となり、多くの反発の中、家臣達を12館に配置し3守護体制をもうけて、蝦夷地での支配体制を整えたはずです。僅か2年では無理とは思いますが。そこまでにして手に入れた大きな権力を、何故、捨てて秋田に行かなければならないのか全く理解出来ません。当然、体制が出来たとしてもまだまだ磐石とは言えませんし、家臣の不満分子の抑え込み、領内の整備、産業育成、幕府への手続き、周辺大名との外交政策、アイヌの人との関係構築、貿易ルートの再構築など、当主として当たり前にやる事があるのに、それすら僅か2年間で完遂してしまったのでしょうか?そもそも上国家は分家筋で下国家に対し命令出来る立場ではありません。安藤政季が本当の下国家当主ならば断る事が出来るはずで、断って当たり前の事象でしかありません。もし、上国家が危機的状況で援軍要請であれば、家臣を遣わせば良いだけの話で、極端に言うと、遠く離れた土地の上国家が滅亡しようが、宗家である下国家を磐石な体制に整える方が当主の務めであり義務でもあります。それとも、自分がやっと手に入れた蝦夷地を離れても良い位の好条件が付き付けられたのでしょうか?多くの書籍を読むと略共通に小鹿島に入ってすぐに檜山(秋田県能代市檜山)に侵攻し檜山に移ったと書いてあります。例えば10万石の領地と1万人の家臣を差し上げますからどうぞ惣領秋田にお出でください。という好条件があったのでは無く、自分の領地は自分で何とかしただけの事です。本当に自分の血と汗で築いた蝦夷地を捨て、全く見知らぬ土地で裸一貫から遣り直したのでしょうか?因みに康正2年(1456)は「南部世譜附録」や「南部根元記」によると安東惟季が南部領に侵攻し交戦状態となっている事から、それらが真実でれば安藤政季は秋田に来た早々に下国家の兵力のみで檜山地方を掌握した事になり、どんな奇策を用いたのかは分かりませんが常識では考えられないと思われます(どの位の家臣を蝦夷地から引き連れてきたのかは分かりませんが、普通は居館の整備や家臣の居住地の確保、領地の把握、家臣への禄の再分配、社寺への安堵状などなど、見知らぬ土地で1年目で戦をする事は有り得ません)。秋田・安東氏側の資料が欠落している為に「新羅之記録」の世界観から抜け出すのは中々難しいですが、状況的に考えると、少なくとも安藤氏に関係のある「新羅之記録」の記述の殆どが創作されたものと考えられます。

最初に語っているように「新羅之記録」は寛永14年(1637)に火災によって焼失した古文書を記憶により復元したもので、それ以前の事は時代が下がるに連れて曖昧となり、ある時期以前の事は全くのハンドフリーとなります。「古事記」や「日本書紀」のように編纂年に近づく毎に真実が語られ、遠くになるに連れ神話の世界に入るように「新羅之記録」も松前氏の祖である武田信広の時代にはまさに神話のようになっていると思われます。一見きっちりとして文脈になっている為に真実や、真実に近い、真実の何かを意味しているという風に誤解してしまいますが、製作者が200年以上の前の事を知る事は出来ません。ましてや、「新羅之記録」以外に同時代の資料に安藤政季の事が記載されているのはごくごく限られ、結果的にどんな実績があり、何時頃秋田に来て、どんな経緯で下国家を継いだのかは謎の一言に尽きます。

それでは、何故、「新羅之記録」では康正2年(1456)に秋田に来たと書いているのか?それは、単純に康正3年(1457)に安藤政季が蝦夷地にいてほしくないからです。「新羅之記録」の世界観、神話の世界では武田信広が素晴しく、すごい人で、尚且つ正義の人でなければいけません。何度も書きますが、享徳2年(1453)に下国家最後の直系当主である安藤義季が死んだ事を受け、新当主である安藤政季を奉じて享徳3年(1454)に蝦夷地に渡ってきたという神話なのです。実際に享徳3年(1454)に安藤政季や武田信広が蝦夷地にいた訳ではないのです。そして、次ぎの康正3年(1457)のコシャマインの戦いで、道南十二館のうち10館が落城する絶体絶命から武田信広が勝利に導いたという神話です。この神話には安藤政季が邪魔な存在なので、秋田に移った事にして蝦夷地からその存在を消しただけにに過ぎず、さらに言えば、本当に康正3年(1457)にコシャマインの戦いと呼ばれるような戦いがあったのかも、その戦いで、武田信広が活躍していたのかも、そもそも、戦いに参加していたのかも誰も解らないはずなのです。単に「新羅之記録」に書かれている事から、正確では無いにしろ同様な何かが起こったと信じているだけなのです。

それでは、何が真実なのか考察していきます。安藤政季は秋田・安東氏関係の家系図に出てきている為に実在する人物です。又、同じく家系図で潮潟四郎ノ子とある為に、安藤盛季の弟である潮潟四郎道貞の孫、潮潟四郎重季の子供という事は確実です。そして下国安東太郎とある為に下国家を継いだということも確実です。さらに、ある時期に秋田に入った事も確実で、長享2年(1488)に死没(法名:長香寺大岩宗広)している事も家系図から分かります。さらに秋田実季が菩提寺である龍頭院を創建した際、政季の菩提寺は長享寺と言及しています。その他の事実としては潮潟氏の居城が蓬田城だった事位です。いままで、安藤政季の事を数多くの書き続けました、つまるところ「新羅之記録」を除けば、ほんの少しの事しか分からず、これ以上でも、これ以下でもありません。中世の地方の一土豪の事は一般的にこれ位の事しか分からないのです。

さらに、感想を続けます。「新羅之記録」の世界観では、蓬田城が南部家に攻められたのは宝徳2年(1450)、これは疑問Cでも言及しましたが、私は、実際は永享4年(1432)前後に落城したと考えています。そこで潮潟家の行動としは幾つか考えられますが主に下の3つが考えられます(居城は尻八館で永享7年:1435年落城説あり、これだと余り矛盾しません。)。

@ 蓬田城が落城前後に秋田に逃避。
A 蓬田城が落城前後に十三湊の下国家宗家に合流し、蝦夷地に逃避。
B 対岸にある下北半島北部に拠点を移し南部家に抵抗。

何れも可能性が高い選択肢で、@は当然、南部家の侵攻により下国安東家の凋落を目の辺りにし、事前に宗家が倒れるような場合に備えて上国安東家に保護を打診していたかも知れません。ただし、秋田に辿り着くまでは敵中突破か、陸奥湾を海路で迂回するなど限られる為、かなり無理があります。Aが一番可能性が高く、落城寸前に戦線を離れ十三湊で下国家と合流、又は事前に城将と少ない家臣を蓬田城に残し主力は十三湊で下国家と合流し南部家に対するというのが戦略的にも合っています。潮潟家が秋田に来る可能性は安藤康季が死去したと思われる嘉吉元年(1441)か、安藤義季が死去したと思われる享徳2年(1453)、「新羅之記録」の世界観では両名とも津軽遠征中に死去しています。当然、没年以外は証拠となるものが無いので遠征したのかは基本的に「新羅之記録」に不信感がある私としては不詳。しかし、康季が津軽西浜の引根城で病死というのは何となく理解出来ます。引根城とはどこの事か解りませんが、津軽西浜が現在の深浦町周辺の事であれば、当時は南部家の勢力が及んでいない空白地で、さらに天然の良港を持っている事から安藤家の津軽での再興する拠点としては相応しい地と言えるからです。康季は永享8年(1436)から羽賀寺(福井県小浜市)の再建を行っていますが、その財力には海運業の再開は必須で、十三湊が南部家によって掌握されている以上、新たな湊として深浦湊が比較的に早い段階から運用されていた可能性はあります。それに、潮潟家は安藤康季の死を持って、下国安藤氏を見限り上国安藤氏に出奔し、深浦湊から海路を使い秋田に入る事は十分考得られます。前にも書きましたが、上国安東家が下国安東家に対して、本拠を移す要請をする可能性は無いし、下国安東家がその要請を受ける可能性はありません。しかし、没落や気が合わない、評価してくれないなどを理由に主家を出奔する家臣は当時は当たり前のように数多くいて、潮潟家もこれにあたると私は考えます。Bも比較的可能性が高く、蓬田城には陸奥湾の水を引き込み、城内に船が着ける設備があったと推定される事から夜陰に乗じて陸奥湾の対岸である下北半島に逃れたとも考えられます。下北半島の北部は当時まだ下国安東氏の勢力圏内だったと考えられ、康正3年(1457)に所謂「蠣崎蔵人の乱」にも関係したとも考えられます。さらに私の考えを言えば、康正3年(1457)に乱が掃討された際、蠣崎蔵人(武田信広)と蝦夷地に落ち延びた潮潟家一族がいて、それが松前藩家老下国家になったとも考えられます。全く根拠はありませんが。

「新羅之記録」の疑問
@ 何故、安藤氏は2度津軽を離れたのか?
A 何故、安藤氏は1度目に南部家と和睦出来たのか?
B 何故、和睦の条件が潮潟四郎重季と南部義政の娘との婚儀なのか?
C 何故、安藤政季(師季)は殺されなかったのか?
D 何故、安藤政季は宇曽利(下北半島)に配されたのか?
E 何故、安藤政季は下国家安藤家宗家に就任出来たのか?
F 何故、安藤政季は僅か2年で道南部の体制を築けたのか?
G 何故、安藤政季は格下のはずの上国家の要請を聞き入れたのか?
H 何故、安藤政季は藤崎城に侵攻したのか?
I 何故、安東忠季は下国恒季を討ち取ったのか?
J 何故、安東尋季は蠣崎光広に「松前」守護職を認めたのか?
K 何故、安東舜季は蠣崎家とアイヌとの講和に立ち会ったのか?
L 愚痴と総括

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