秋田・安東氏:「新羅之記録」の疑問

  秋田県:歴史・観光・見所(ホーム)秋田氏・安東氏「新羅之記録」の疑問>何故、安藤氏は1度目に南部家と和睦出来たのか?

概要・歴史・観光・見所
A 何故、安藤氏は1度目に南部家と和睦出来たのか?
正確にいうと「新羅之記録」が安藤氏と南部家が和睦したと書かれている訳ではありません。研究者や専門家が永享4年(1432)に蝦夷地に逃れたはずの安藤氏が、嘉吉3年(1443)にもう一度蝦夷地に逃れたと考えている為に、その論を成立させる為には幕府が仲裁に入り和睦が成立したと推定しているのです。安藤氏は最大の拠点である十三湊を捨て、蝦夷島に逃れている事からも、壊滅的な被害を受け事実上津軽での拠点を失っていると想定され、南部家側から安藤家に対して和睦を持ちかける事は無いし、安藤氏側から持ちかけられても受け入れたとは考えられません。和睦とはある程度お互いに利益がある場合にしか成立しないのです。勝った南部家の家臣達は恩賞を期待し、その当主はそれに応えなければなりませんし、多くの戦費を費やしている事から、どこかで補填しなければなりません、税収を強化すれば民衆の不満を高まります。もし、勝った筈なのに、対等に和睦が成立し見方に恩賞が与えなければ、家臣の中でも不信感が生まれ謀反が起きる可能性が高まります。和睦が成立するとしたら幕府が軍事介入するしかなく、その命を担うのが大崎斯波氏しか該当者がいなく、大崎斯波氏は南部家と通じている事は幕府にも承知の事実である事から動きたくても動けない世情だったと思われます。もし、南部家に対して説得が通じたとしても南部家の家臣達が納得出来る程の安藤氏の圧倒的な譲歩は避けられず、当主以下、主要の安藤家男子は切腹、大幅な領地の割譲、アイヌや蝦夷に対しての利権の放棄、新たな当主や過半数の執行部は南部家から輩出などが行われ、かろうじて安藤という家名だけが残される位でなければ和睦は成立しないと思われます。しかし、幕府が軍事行動をとった形跡も安藤氏が譲歩した形跡も全くありません。さらに言えば、結果的に安藤氏を津軽から追い出した南部家に対して幕府が咎めた形跡もありません。幕府は両家の対立に憂慮し南部家に対して勧告を度々行ったものの、実際は実力的介入は殆ど行わず傍観していたのが現実と思われます。

「新羅之記録」の疑問
@ 何故、安藤氏は2度津軽を離れたのか?
A 何故、安藤氏は1度目に南部家と和睦出来たのか?
B 何故、和睦の条件が潮潟四郎重季と南部義政の娘との婚儀なのか?
C 何故、安藤政季(師季)は殺されなかったのか?
D 何故、安藤政季は宇曽利(下北半島)に配されたのか?
E 何故、安藤政季は下国家安藤家宗家に就任出来たのか?
F 何故、安藤政季は僅か2年で道南部の体制を築けたのか?
G 何故、安藤政季は格下のはずの上国家の要請を聞き入れたのか?
H 何故、安藤政季は藤崎城に侵攻したのか?
I 何故、安東忠季は下国恒季を討ち取ったのか?
J 何故、安東尋季は蠣崎光広に「松前」守護職を認めたのか?
K 何故、安東舜季は蠣崎家とアイヌとの講和に立ち会ったのか?
L 愚痴と総括

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