秋田・安東氏:「新羅之記録」の疑問

  秋田県:歴史・観光・見所(ホーム)秋田氏・安東氏「新羅之記録」の疑問>何故、安藤政季は藤崎城に侵攻したのか?

概要・歴史・観光・見所
H 何故、安藤政季は藤崎城に侵攻したのか?
又、自論が続きます。潮潟家は上国家(湊家)安東氏の要請で秋田に来たというよりも、下国家安東氏を出奔した可能性が高い事を先程話しました。そして、下国家安東氏自体が本拠である蝦夷地を見捨てて秋田来る理由が無いという話もしました。そもそも、安藤政季は下国家安東氏を継げる可能性の低い人物である事も話しました。でも、結果的に政季は下国家安東氏宗家を継いでいます。何故出来たかというと、秋田の地で下国家安東氏宗家を継いるからです。秋田の地では潮潟家が血筋的に下国家安東氏宗家に一番近く、さらにその近親者も譜代の家臣もいなく文句を付ける人が全くいないのです。当然、上国家(湊家)安東氏の後ろ盾があり、ある意味、傀儡として利用しようとしたと思います。これなら、双方に都合がいい事になり誰にも文句が無いのです。これなら、一見不自然な事も繋がっていくと私は思います。秋田に入った政季ですが例の如く信用のある資料が無くどの様な行動を取ったのかは不詳です。多くの家系図では長享2年(1488)死去、法名:長香寺大岩宗広。とあり、その年に亡くなった事が分かります。又、多くの書籍等では河北郡の領主葛西氏と戦い、河北郡を手中にし文明2年(1470)に藤崎城に侵攻し同族の安東義景と浪岡城主である北畠氏に敗れ撤退、これにより家臣の反感を招き、長享2年(1488)に再び藤崎城のに侵攻する直前に長木大和守が謀反を起こし政季は糠野城で自刃したと記載しています。秋田・安東氏側の文献等は無い為、この「新羅之記録」の世界観を追認している書籍ばかりですが、私は懐疑的なので検討していきたいと思います。これは私の世界観なので、当時の武家の当主とはかなり違うかもしれませんが・・・・。まず、安藤政季は下国家安東氏の当主ではありますが、遺伝子的には直系では無く、使命感から継いだというよりは、上国家安東氏から継がされたという側面が強い傾向があります。さらに、周辺は下国家安東氏の譜代の家臣では無く、潮潟家に従った家臣だったと思われる事からも、厳粛に下国家当主を演じる必要も無く、それを強要する人も周りにはいなかったと思われます。藤崎城は南部領から津軽平野を繋ぐ津軽街道沿いにある為、南部軍が十三湊に侵攻した際には確実に落城か開城になっていると想定される城です。すると、藤崎城は40年近くは南部家の城で、政季は見た事が無くさほど愛着がある城とは思えません。さらに、二ツ井町(現在の能代市)に境内を構える梅林寺の境内から「羽州扇田住浅利勘兵衛則章」と応永2年(1468)の銘がある棺が発見されている事から、同時代には二ツ井町が浅利氏の勢力下にあった事が証明されています。安藤政季が藤崎城まで遠征するのは愚挙ですが、その愚挙をするのにも、少なくとも江戸時代に羽州街道と呼ばれる街道沿いを掌握していいなければいけませんが、そこは完全に浅利領な訳ですから、そもそも遠征するのは不可能なのです。因みに安藤政季が忙殺されたという糠野城も二ツ井町にあり、時代は下がっているものの、当時も浅利氏領だった可能性が高いと思われます。又、北畠氏は南部家と繋がりがあるので解りますが藤崎城の城主安東義景という人物も謎です。出典が良く解りませんでしたが、偽書とされる「東日流外三郡誌」かその関係がある古文書に後土御門成仁天皇の第3皇子である天真名井宮義仁親王が奥州の地まで流れ安東義景の娘である千代姫を室として迎え入れたという設定で登場しているようです。こうなると安東義景の存在そのものが怪しく感じられます。

安藤政季が下国家に固執していないというのは、何も政季という事だけでなく両家が統一した愛季以前は「海」や「海運」といった本来下国家の真骨頂とも言えるはずなのに、妙にそれらが感じられません。本来、下国家の財政を賄うべき能代湊の本格的な整備は天文20年(1551)という100年という時間が流れた後で、先祖伝来の御家芸というよりは単に能代湊の必然性から行った行為に思われます。さらに、信仰の中心の1つだった日吉神社の存在が檜山にはありません(能代に鎮座する日吉神社は家臣が尋季に嘆願し、追認した事から積極的に安東氏が勧請した訳ではありません)。安東氏が神社系統の信仰の中心は日吉神社と古四王神社、赤神神社です。古四王神社は安東氏の氏神的な存在で、家系図上の先祖の1人大彦命が祀られています。日吉神社は、比叡山延暦寺の守護神で、これは、十三湊から小浜湊に水揚げられた後、京都までの街道筋で最大の神社である事から信仰の対象になったと思われます。赤神神社は男鹿半島の本山に鎮座する地元神で、これは本山が航海上の目印になる事から特に海に関わる人々から信仰されていました。檜山ではこれらの神社の中で唯一古四王神社だけが信仰の対象となり、当主の菩提寺よりも篤く庇護されてきました。又、移封先となった宍戸(茨城県笠間市)や三春(福島県三春町)にも古四王神社の形跡は見られるものの、自分が知る限りでは他の2社が篤く祀られていたという形跡は見られません。当然、両家が統一した直後の愛季と実季は3社供庇護していますが、旧上国家勢力の懐柔策の可能性もあり、先程述べた移封先には勧請する事はありませんでした。これらからも、津軽時代の下国家と秋田時代の下国家とは大きく隔たりがあり、いわば別家であると考えた方が自然に思われます。結果的に安藤政季について秋田・安東氏側の信用ある記録だけを見ると次ぎの6項目しかありません。

 ・ 安東一族である潮潟四郎の子供である。
 ・ 下国安東太郎である。
 ・ 秋田に入った事。
 ・ 長享2年(1488)没。
 ・ 法名:長香寺大岩宗広。
 ・ 菩提寺は長亨寺。ただし、その痕跡なし(実季が宍戸に移封後に形式的に国清寺と長亨寺を合わせ龍頭院を創建)。

「新羅之記録」の疑問
@ 何故、安藤氏は2度津軽を離れたのか?
A 何故、安藤氏は1度目に南部家と和睦出来たのか?
B 何故、和睦の条件が潮潟四郎重季と南部義政の娘との婚儀なのか?
C 何故、安藤政季(師季)は殺されなかったのか?
D 何故、安藤政季は宇曽利(下北半島)に配されたのか?
E 何故、安藤政季は下国家安藤家宗家に就任出来たのか?
F 何故、安藤政季は僅か2年で道南部の体制を築けたのか?
G 何故、安藤政季は格下のはずの上国家の要請を聞き入れたのか?
H 何故、安藤政季は藤崎城に侵攻したのか?
I 何故、安東忠季は下国恒季を討ち取ったのか?
J 何故、安東尋季は蠣崎光広に「松前」守護職を認めたのか?
K 何故、安東舜季は蠣崎家とアイヌとの講和に立ち会ったのか?
L 愚痴と総括

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