秋田・安東氏:檜山城

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檜山城:城下町

概要・歴史・観光・見所

檜山城: 居城となる檜山城秋田県能代市檜山)は永享4年(1432)、安藤康季修築説と康正2年(1456)に安藤政季が築城開始説、明応4年(1495)に安東忠季に完成説があるようです。自説からすると、康正2年(1456)頃、檜山地方は上国安東家の勢力下にあり政季は直接檜山城の城主として配されたと思っています。特に資料等はありませんが、津軽から小鹿島(男鹿半島)に一端配され、兵力も整わず地勢、地形も乏しい中、一年の内に檜山地方まで勢力下に入れ築城まで行う事は事実上不可能です。小鹿島で上国安東家に対して、儀礼や事務的な事を行って、速やかに檜山城の城主に就任し、修築なり拡張などが行われたと考える方が自然と思われます。そして明応5年(1496)に本来の下国家の当主下国恒季が滅んだのを見計らい安東忠季が名実共に唯一の下国家の当主として檜山家を掲げています。とはいっても忠季が9歳の時の出来事ですから全て上国安東家が御膳立てを行い傀儡政権が続いたと思われます。安藤康季修築説は信用度の高い「満済准后日記」によると永享4年(1432)に安東家が南部家の侵攻により津軽の地を離れ、蝦夷地に撤退した年にあたり、本拠である十三湊から遠く離れた檜山城を修築しているとは到底思えませんので、一番無い説と思われます。檜山城は標高147m、比高128mの霧山山頂に築かれた中世の山城で、東西1500m、南北900mと東日本最大級の規模を誇り、本丸を中心に2ノ丸、3ノ丸、腰郭などがあり、尾根沿いには大小数多くの郭が存在し、要所に空堀や虎口などを設けた大城塞として随時拡張されました。

国清寺: 日照山国清寺の創建は永正元年(1504)、安東忠季が在天文龍和尚を招いて檜山安東氏歴代の菩提寺として開山したのが始まりと伝えられています。在天文龍和尚は補陀寺2世だった人物で補陀寺を開山し総持寺25哲の月泉良印の弟子とされますが、月泉良印は1319年〜1400年に生きた人物なので事実上不可能です。そこで、自論ですが安藤政季の菩提寺である長亨寺です。もし、政季が比較的早い段階で在天文龍和尚を招いて長亨寺を創建していたとしたら時代的には問題は無く、長亨寺の後継寺院が国清寺であれば長亨寺が無くなる事からこちらも納得出来ます。忠季も信頼のある資料が少ない事から国清寺の創建が唯一の実績のような気がします。永正元年(1504)の忠季の年齢は17歳なので十分分別があり積極的に関わった可能性が高い事例です。永正8年(1511)に忠季没、享年24歳、法名:日照山国照寺殿天讃祐公大禅定門。その後は歴代檜山安東氏から庇護され、秋田実季も寺領103石を安堵している事から歴代当主も概ね100石前後を安堵していたと思われます。慶長7年(1602)、秋田実季が宍戸藩に移封になると国照寺も宍戸に移され、長亨寺と合わせて秋田山龍穏院として改めて創建されています。檜山城の番神堂から見ると略、北側に位置していましたが境内跡は放置され、現在は大きなイチョウだけが残されています。

楞厳院: 天文3年(1534)に安東尋季死没。享年54歳。法名:楞厳院権即宗丹。檜山城の山麓にある楞厳院は尋季の菩提寺とされ、尋季が死去すると元々富岳庄にあった天台宗の寺院に葬られ、跡を継い舜季が機山和尚を招いて法名と地名に因み富岳山楞厳院に改称し曹洞宗に改宗、寺領60石を寄進しています。慶長7年(1602)、秋田実季が宍戸藩に移封の際には従わず衰微しましたが、久保田藩檜山所預の多賀谷氏が庇護し寺領20石を安堵して中興開基となっています。その後、境内を何度か移転を繰り返し嘉永5年(1852)に現在地に本堂が移築されています。

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