横手城(朝倉城・阿櫻城・韮城)概要: 横手城の築城年は諸説あり正安2年(1300)に小野寺道有が築いたとも、応仁元年(1467)に横手道前(小野寺家家臣)が築いたとも、天文23年(1554)に小野寺輝道が築いたとも云われています。輝道は居城である横手城を中心に雄勝、平鹿、仙北の3郡の他、最上郡の一部を手中にし稲庭城・川連城・西馬音内城・大森城・湯沢城に一族や有力家臣を配する事で小野寺家の最盛期を築きました。横手城は比高50m程の平山城で石垣を設けなかった代りに敵兵が登ってこれないように韮を植えた事から「韮城」の別称があり、3方が横手川、背後が奥羽山脈が控えた要害で、前述した支城へ繋がる街道が交差する交通の要衝でもありました。輝道の跡を継いだ小野寺義道の代になると最上義光の進行を受け、最上郡、雄勝郡が搾取され、天正18年(1590)の小田原の陣に参陣したものの、その後の一揆発生の責などもあり3万2千石しか認められず、最盛期は10万石から15万石を領していた事を考えると1代で大きく後退しています。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは当初は東軍に与したものの、長年の恨みから西軍に与し最上領に侵攻、最上軍がの主力が上杉軍に対していた事もあり当初は小野寺軍有利に展開していました。しかし、本戦で西軍が敗退し、上杉軍が自領に引き上げると一挙に不利となり堅城として知られる大森城で籠城戦を虐げ、戦術的な落城は免れたものの、結果的に降伏し慶長6年(1601)に小野寺家は改易、津和野藩預かりとなり横手城から離れました。
横手城は一時最上家が管理しましたが、慶長7年(1602)、佐竹氏が久保田藩に移封になると家臣である伊達盛重(伊達政宗の叔父)が横手城の城代として赴任し、慶長8年(1603)からは須田盛秀が城主となります。慶長20年(1615)、一国一城令が発令される中、久保田藩では本城である久保田城と共に横手城と大館城が支城として認められ、全国的に見ても半国支配で3城所有している稀な存在となりました。寛文12年(1672)から佐竹氏の一族である戸村義連が横手城に入ると以後、明治維新まで戸村家が城代を歴任し横手発展に尽力しています。
元和8年(1622)、幕府の重鎮で宇都宮藩15万5千石の藩主本多正純が無断で宇都宮城(栃木県宇都宮市)を改修し2代将軍徳川秀忠が日光東照宮(栃木県日光市)の参拝で宇都宮城に宿泊した際暗殺を画策(宇都宮城釣天井事件)したなど、合計14カ条の嫌疑を受け、本荘藩5万5千石で移封となりましたがそれを拒否した為、久保田藩の佐竹家預かりとなり横手城の南東(案内板では横手城の三之丸)に配所を設け厳重に監視されました。正純はこの地で73歳で死去しています。
慶応4年(1868)の戊辰戦争の際、久保田藩は新政府軍に与した為、横手城には庄内藩、仙台藩、山形藩など奥羽越列藩同盟に属した藩兵が侵攻、横手城には城代の戸村大学をはじめ100余名の藩兵が籠城しましたが明治元年(1868)8月11日総攻撃を受け奮戦むなしく落城し、戸村大学は何とか城を脱出し久保田藩の本隊と合流しました。犠牲者となった21名は戸村家の菩提寺である龍昌院に葬られ墓碑が建立されました。
横手城は久保田城と同様に大規模な石垣や天守閣はなく、土塁と櫓だけの城郭で、本丸(南北43間:78m×東西26間:47m)には5つの入母屋屋根に覆われた大規模の御殿が設けられました。現在、横手城の本丸跡には秋田神社(横手城が廃城になった際、廃材を利用して建立)、2の丸跡には模擬天守閣が建ち、天守閣内部は横手城の資料等が展示され最上階からは横手市が一望出来、遠く鳥海山を望みます。横手公園の全体の設計は「長岡安平」と言われ牛沼に掛かる朱色の橋は印象的で横手公園の象徴でもあります。又、桜やバラ園などすばらしく横手市の憩いの場となっています。
|