彌高神社 |
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[ 付近地図: 秋田市千秋公園 ]・[ 久保田城・千秋公園フィールドワーク ] |
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彌高神社(久保田城)概要: 彌高神社は案内板によると「彌高神社は明治42年(1909)に、国学者平田篤胤、経世家佐藤信淵の両大人を祀る神社として創建され、大正5年(1916)現在地に移築したものである。この社殿はもと久保田城内にあった佐竹氏の氏神八幡神社の正八幡社で、文政2年(1819)の建造である。本殿は桁行三間、梁間2間、入母屋造、向拝三間、銅板葺きである。向拝は吹放しとなり、虹梁と手狭を重ねた珍しい手法があり、また縁腰組などの扱いと彫刻類の多用などに、この時代の特徴がよく現れている。拝殿は桁行正面五間、背面七間、梁間2間、入母屋造、向拝一間、軒唐破風付、銅板葺で平面的に独特なものをもっている。本殿、拝殿は現在石の間で結ばれ、権現造の形式をとるが、石の間は後年の建造とみられる。彌高神社社殿は、秋田藩の造営した数少ない神社建築として貴重なものである。 秋田市教育委員会 」とあります。現在は久保田城の二の丸奥に鎮座し、本殿の方は神域の為、見る事は出来ませんが拝殿だけでもなかなか見ごたえがあります。正八幡神社の創建は応永年間(1394〜1428)、佐竹家13代当主佐竹義人が鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)の分霊を居城である太田城(茨城県常陸太田市)内に勧請し若宮八幡宮と称したのが始まりとされます。慶長7年(1602)、義宣が久保田藩に移封になると久保田城の北方に位置する八幡山に鎮座し小八幡と呼ばれるようになりました。八幡神は佐竹氏の氏神だった事から歴代藩主から崇敬庇護し、同じ八幡山に鎮座する大八幡社、小八幡、稲荷(現在の与次郎稲荷神社)は御城内三社と呼ばれ特に篤く庇護されました。明治4年(1871)に秋田藩(久保田藩)が廃藩になると久保田城は廃城、明治6年(1873)小八幡は大八幡と合併し正八幡神社となりました。明治11年(1878)、旧大小八幡の社殿が広小路に移築して大八幡の社殿は秋田神社、小八幡の社殿は正八幡神社の社殿となりました。明治40年(1907)、秋田神社と正八幡神社が合祀され、秋田八幡神社として久保田城の本丸跡に遷座し旧大八幡の社殿がそのまま移築、残された旧小八幡(正八幡神社)の社殿は明治42年(1909)に創建された彌高神社の社殿となり後に久保田城の二之丸に移築されました。彌高神社の前身である平田神社の創建は明治14年(1881)、小谷部甚左衛門など平田篤胤の門人の有志が八橋の日吉八幡神社の境内に篤胤の御霊を勧請したのが始まりとされます。明治42年(1909)、広小路にあった旧小八幡(正八幡神社)の社殿を買取、遷座、9代藩主佐竹義和が書いた久保田藩の藩校である明徳館の題額「仰之彌高」に因み社号を彌高神社に改めました。大正5年(1916)に現在地である久保田城二之丸に遷座し、大正8年(1919)に県社に列しています。彌高神社、拝殿、本殿は秋田県重要文化財に指定されています。
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