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大館市概要: 大館市は古くから生活条件が良いといわれ、縄文文化の発達した地域と考えられています。その為か、8〜9世紀になっても「蝦夷」の地と呼ばれ、旧態以前の生活を守ろうと反体制的でした。この事はこの地域の誇れる事柄だと思います。「元慶の乱」では鹿角、阿仁、大館、能代、八郎潟周辺の族長達が連合し秋田城を襲撃した記録も残っています。大館市周辺は米代川の水運や街道の結束点である為、戦国時代北秋田郡(比内郡)を支配していた浅利氏の拠点の1つとなりました。特に大館市は秋田氏、南部氏と領土が接し肥沃な土地だけでなく鉱山資源も豊富だった事から多くの戦が行なわれ攻防を繰り返しました。戦国末期には浅利氏は秋田氏の従属するようになり太閤検地によって秋田氏の領土として認められています。江戸時代に入ると佐竹氏が秋田藩を立藩し、家臣である赤坂氏が大館城へ入りますが旧浅利家臣が中心となりの一揆が発生し同じく家臣だった小場義成が一揆を鎮圧します。その後大館市周辺は小場義成(後に佐竹西家を賜る。)が大館城の城代(所預り)となり城下町の町割りが行われました。大館城は一国一城令の中、城として認められ秋田藩の中でも山林資源や鉱山資源などが豊富な大館市は重要拠点の1つとなりました。内町には家臣や重臣が住まい、外町には職人が多い鍛治町や大工町、城下町一賑わった大町や馬喰町には羽州街道が通り多くの商家が建ち並び現在の大館市の商店街として形成しています。防衛上重要拠点には寺社仏閣が配置され、伝馬屋敷の西側には寺町が形成されました。独鈷町には浅利氏の旧家臣が居住しました。その後多くの火事や戊辰戦争などで町屋など古い建物の多くが失いましたが、町割りなどは当時の計画が基本的に残っていて大館市を歩いていると当時の郭の段差や坂などが随所に見受けられます。
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大館市 |
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大館市町並み: 旧商人町 |
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大館市町並み: 旧武家町 |
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